Personnage
好きな物が有るはずなのに悶々と過ごしている人の心理と、趣味を最高に楽しんで生きるための心構え。
Public
―前置き―
『知能』とはなにかと問うたら、それは本質的には「自覚能力」である。
たとえばアリは自分がアリであることを自覚しない。この地上の、生態系においてどのくらいに位置するかも自覚していないだろう。人間の足に踏みつぶされそうになっても、自分がどんな状況におかれているかというのを自覚できないはずだ。本能的反射によって、「生命の危険」という信号を小さな脳と神経回路で処理し、それに準じて機械的に退避しようとするだけだ。
行列の道しるべを消されても、何故そんなことが起きたのかを自覚することなく、淡々と修正作業を行っていくだけだろう。
この自覚能力は、高等生物であるほど大きく成長して備わっている。
だから猫や犬は自分がどこに居てどんな立場にあるかなどをある程度把握できる。
そして言うまでもなく、人間には相当に高度な自覚能力が備わっている。
我々は、自分が「人間」「ヒト」と呼ばれる生き物だと自覚する。自分がそのなかの一人で、自分の意思をもった自由な個体であることを自覚する。自分がどんな家庭で生まれて、今どこに居て、どんなことを考えているか、何を望んでいるかなど、いろいろなことを自覚しながら生きている。まさに自分で考えることができる生き物である。
人間が共同生活を行う「社会」という概念的なまとまりがあるということも自覚するし、自分もそのなかの一部であることも、自分の生きる道が世の中で『人生』と呼ばれるものであることも自覚している。
人間は自分の意識,能力,立ち位置,精神状態などを自覚する。
そのおかげで生きていくうで直面する様々な問題を自覚し、試行し、打開していくことが可能なわけである。
が、良いことだけではない。
人間はこういう自覚能力、知能があるせいで悩む。
「何故生きるのか」「何のために頑張るのか」「この苦しみの先になにがあるのか」「そこまでして生きる意味があるのか」などという悩みは、間違いなく我々に知能があるから生じてくるものである。
それは、自分が小さく無力な個体で、自分の生には逃れられない終わりがあり、この世界さえ永遠ではないし恒常的なものでもないということを、根本で自覚・理解しているからである。
たとえば、「自分がここで何を考えてどんなに頑張ってもなんにもならないのに、なんで生きなければならないんだろう」… そういう空虚な考え方が、人間にはあるだろう。特に心身が疲弊しきっている時には、人間はこういうことを考えやすい。
我々は、どこで何をしていても常に『自覚』しているのである。
知能はふつう、歳を重ねるごとに成長していく。
それが分かりやすいのが、「若気の至り」というやつである。
若いうちは誰しも知能が低く自覚能力が貧困であるので、
・まだ学生で、経済的にも精神的にも全く余裕がないにも関わらず子供を作ってしまう
・自分の能力を高く評価しすぎてネットでイキる
・公共の場で人の迷惑を考えずにバカ騒ぎをしてしまう
・「俺はこんなに喧嘩が強いんだぞ」という、実生活において不必要でむしろ社会的に不適合なものを誇ったりする
このような低能な行動をとりやすい。
これらはすべて、自覚が足りないから起きることだ。
ある程度まっとうに生きていれば、大人になるにつれて自分の立ち位置というものを弁えていくから、20代後半~30代にもなれば、もうこのような行動をとることはなくなっていく。知能が高くなればなるほど落ち着いた人間になってくる。ネットでもリアルでもバカなことをしなくなっていくだろう。世間を舐めたような態度とか、人をバカにするような態度とかも無くなっていく。
いい歳になってそのようなバカを繰り返している人というのは、結局、自覚能力が育たなかった低能な人間なのだ。あなたの身の回りにも居るのではないだろうか?
だから以前言ったように、人間の人格を作るうえで『思考経験』…つまり何をどれだけ考えて生きてきたかという経験は欠かせないわけである。
―本題―
世の中には、趣味や好きなものがあるはずなのに日常的に悶々orイライラしているような人が少なからず居る。これは、Twitterなどを観ているとよく分かるのではないだろうか。自分の好きなものを素直に楽しみ心が充実するということなく、しょっちゅう「暇だ暇だ」と言っていたり、赤の他人に文句を言ったりイキったりを続けている人たちである。
あれは何故か。
人間の知能、自覚の原理を理解していないからである。
さっきも言ったように、人間は自分の立ち位置や生き方や精神状態を、常にある程度自覚している。
・ここは自分が求める場所ではない。
・もっと高みにいきたいのに努力が足りていない。
・本当に望む生き方は別にある
・自分はいま、精神的に充実していない
ということをしっかり自覚している。
これを埋めるために行動していかなければ、コンプレックスが出来上がり、それはどんどん大きく硬くなっていってしまうのである。
たとえば、休日にぶっ通しでゲームをしていて1日を消費したあとに「何やってんだろう…」「ゲームなんて時間の無駄だよな…」などと思って悶々としてしまうのは、自分のその行いが、今の自分にとって「なんにもなっていない」と自覚しているからなのだ。
「本当は友達と外で遊びたい」「本当は勉強しなきゃいけないのに」「もっとためになる過ごし方があるんじゃないか」そう自覚しているから、悶々とするのである。
結局のところ、自分が、自分が考える理想に近づくために何もしていないと自覚しているのである。
「ゲームが本当に好きで、休日にやろうと楽しみにしていたのは間違いないのに、ゲームで1日浪費すると悶々とする…時々鬱になる…」という人も居る。これも似たようなもんで、自分が「なんにもならない遊び方をしている」と自覚しているからそんなふうに悩むのだ。
自分の命も、そして恐らくは現在の宇宙もいずれは終了するこの定めの中で、「なんにもなっていない」という感覚は、ほかの何よりもヒトの精神を蝕む。
ヒトには優れた知能があるのだから、それは必然である。
であるから結局のところ、悶々とした状態やイライラとした状態がいつまでも続くようであれば、自分に足りないものを自覚して補っていく他ない。自分が自覚していること気づいて、それを埋め合わせていくしかない。
とても面倒に思えるが、逆にいえば、これさえできれば精神的に安定・充実して生きていけるのだから得るものは大きいだろう。
以上のことを踏まえて、ビデオゲーム体験を無意味に感じてしまう心理状態の、根本的解決方法を教えよう。
それは、出来るだけ多くのものを「感じる」ことだ。
「なんじゃそりゃ」と思われるかもしれないが、
例えば、ゲームが趣味の人よりも読書が趣味の人のほうが間違いなく精神的に成熟・充実していると言えるだろうか。休日にアニメや映画を観る人よりも、スポーツをしている人のほうが人格がしっかりしていると断定することができるだろうか。
そんなことは断定できない。
スポーツが趣味でもろくでなしは沢山いるし、いくら読書をたくさんしていても人格に余裕がない人などいくらでも居る。
そうではないのだ。
あなたの趣味がなんであれ、その娯楽に問題があるのではなく、あなたの楽しみ方,嗜む姿勢に問題がある。
物事の、人生の本質をよく考えてみてほしい。
言うまでもなくあなたの命はいずれ終わるし、この世界の情勢がこくこくと変わっていっても恐らくいずれは人間の文明そのものの終わりが来る。この宇宙そのものにだって終わりはあるだろう。
あなたや私が今何に精を出していても苦しんでいても、必ず終わりが来る。
どことどこが戦争しようが、どこで何人死のうが、幸せを感じようが感じまいが、終わりは必ず来るのである。それを前提にすれば、考えようによってはすべてが無駄に思えてしまわないだろうか?
「なに大げさな話してんだよ」と思うかもしれないが、ならば私たちが大晦日になんとなく心が浮つくのはなぜだろうか。結婚して子供をつくっていくのはなぜだろうか。
生の終わりを自覚し実感している我々が、どうしてそれでも生きようとあがくのだろうか。どうして命をつなげていこうとあがくのだろうか。どうして新たな命の誕生にいちいち感動するのだろうか。
このような未来への希望は全て、終わりがあることを自覚しているから生じるものなのだ。
人間は、終わりを自覚するからこそ、「それでも」とあがき続けるのである。幸せを感じたいとあがくのである。誰かに伝えたいともがくのである。
それは、卓越した知能や知性を着こんだ生命の本能の在り方なのだろう。まさに可能性の獣である。
終わりある人生を楽しむためには、できるだけ多くのものを感じるしかない。心に蓄えるように。
現実的に考えて、どんな仕事に就こうがどんなに金を稼ごうが必ず終わりが来るのだから。
だから「感じる」ことをしなければいけないのだ。
これをもっと小さな区切りで考えれば、先ほどの休日の過ごし方の例が納得しやすいのではないだろうか。
2連休でも3連休でも、夏休みでも、終わりが必ず来る。それを誰に言われなくても私たちは自覚する。
だから、「なんにもならない過ごし方」をしているという自覚をごまかさないように過ごさねばならない。
趣味だってそうである。
趣味を存分に楽しんでそれによって恒常的に精神を充実させていきたいのであれば、「なんにもならない嗜み方をしている」という自覚を埋め合わせていくしかない。
具体的に例えると…
そう、もしあなたにとってゲームが唯一の趣味ならば、自分の世界を狭めず、目つきを悪くせず、出来るだけ色々なゲームをやってみること。できるだけ多くの作品に興味を広げ、できるだけ多くのことを考え感じるようにして嗜んでみることだ。
キャラの人間性,開発者の問いかけ,デザインの美しさ,操作システムの工夫,ボタンを押す気持ちよさ,映像や音楽の気持ちよさ、フレンドと共闘する喜びなど、できるだけたくさんのものを重層的に感じ、神経全部で楽しむように心がけることだ。
そうすればゲームは、勝った負けたの退屈な作業ではなく、単なる暇つぶしではなく、あなたの人生を文字通り『彩る』最高の嗜好品になっているだろう。
このゲームはここがクソ、こっちもつまんなそう、こっちもやる気にならない… 結局もうずっと同じものしかやっていない… そんな嗜み方をしていれば人格がなまるか腐るかして「暇暇」人間になっていくのは自明の理だ。(そういうヲタクたくさん居るでしょう。)
仕舞には、誰に聞いてもらうでもなくtwitterで暇だ暇だと言い続けるようになる。
それより、「あれも楽しそう!」「こっちも楽しみだな」「あれもかっこいい!!(かわいい)」と思って過ごしているほうがよほど自分のためになるだろう。
あがいてそれでも楽しめない、合わないものは思い出の片隅にしまって、どんどんほかのものに目を向けよう。
元来、嗜好品・趣味・娯楽というのは、人間が自らの限りある『生』を彩ろうとした結果である。
洋服だって、極端なはなし実用性だけで考えればある程度何だっていいわけである。
着られさえすればどんなボロ布でもいいわけである。
しかし、この世にはファッションという言葉がある。
オシャレとか清潔感とかいう概念もある。
お気に入りの服を着て、大好きな音楽を聴いて出かければ、それだけで心が晴れやかにもなろう。
スーツだって多少はおしゃれを気にするし、わざわざ高級な生地を使用したり、それをわざわざ買ったりしている。
飲み物だって食べ物だって同じである。水と栄養食だけでも生きてはいける。果物だけでも生きていける。
だが人間の心はそれでは摩耗してしまう。それは自覚能力が、感じる能力があるからである。
好きな人が作った料理ならうれしくなるし、飯屋でうまいものを食えば幸せな気持ちになる。救われて涙を流すことさえあるだろう。酒を飲んでアルコールで気持ちよくなって、楽になることもある。
そういうものである。
全ては、「感じる」ための行動なのである。
だからゲームもスポーツもなんでも、そのように楽しんでほしい。
たくさんのことを感じるように嗜んでもらいたい。
「発散」にも「吸収」にもならない嗜み方はおすすめしない。
毎日少しでも何かを蓄えていると感じていれば、あなたの精神は絶対に腐らない。
落ち込むことやイライラすることは多少あっても、必ず持ち直すことができる。
いつ死んでもいいというくらいの気持ちで、生にしがみつく。
それがちょうどいい。
そして自分の心の充実分を、どんどん他人に分けていくがいい。
引きこもってカーテンも閉め切って毎日勝ち負けだけを気にしてゲームを作業的にこなしている生活のような精神状態にならないようにするのだ。これほど「なんにもならない」過ごし方はなかなか無い。
足りないと思えば、足りないものを探そうとあがけ。もしすぐに見つからなくても、多くのものを感じることを繰り返していれば、ハッと見つかる瞬間が来るだろう。
自分の脳内の世界を、狭くて薄暗い、カーテンを閉め切った部屋にしないように、
色々なものを注ぎ足し注ぎ足しして生きていくのだ。
そうすれば我々の心は着実に育ち、潤っていく。
多分少しずつ頭もよくなっていく。
それが、いかにも人間らしく、最も充実した生き方と言えるだろう。
おはようございます!
内容全てに共感したのでコメントさせて下さい!
リアルでもゲームでも何でもそうですが、おっしゃるように「経験」して「感じる」事が非常に重要だと思ってます。人は経験した事しか覚えてないですし、身に付かないものなんですね。
またゲーム本来の目的である「楽しむ事」を忘れて他人を卑下したり、陥れたりする行為が散見していて残念に思います。更にTwitterなどSNSの普及で容易にコミュニケーションができるようになりましたが、一方通行な会話が目立ち過ぎてる気もしてます。コミュニケーションの欠如というと語弊があるかもしれませんが、自分を主張する事しか出来なくなってきていて、相手を思いやらさない発言や行動、共感力の欠如が目立っているようにも思えます。共通の趣味や出来事を会話のキャッチボールをして楽しむ方法も一つの解だと私は思っています。
人間らしく最も充実した生き方は私はまだまだ足りないところですが、自分自身を客観視出来る「メタ認知」も必要なのかもしれないですね。
長々と失礼しました〜。また日記書いて下さるの楽しみにしております。
ありがとうございました!
・Ameliaさん
コメントありがとうございます('ω')
経験して感じて蓄えて、娯楽というものの意義を実感し、ワクワクの正体や自分の成長を自覚できるのは人間の特権といえますね。この能力は使わなければ損。
また今度掘り下げて日記にしようと思いますが、そのような一方通行なやりとりに垣間見えるのは、自由という概念に関する勘違いが関係してるのではないかと。我々人間は生まれた時点で自分という『自由』を手にしています。自由は前提であって結論ではない。それを知らず、個体差や優劣の実在も理解せず、「皆違って皆良い」を無差別に振りかざしているワガママな人がいかに多いことか。「自分は自由をよく分かっていて寛容である」という顔をしてその実、人の話を聞かず、聖人君子ぶった漠然とした自由論を言いながら他人にキツく当たる。そういう人が結構いますよね。 自由だから自由にするのではなく、自由だから時として対話や衝突をしなければならないということを自覚していないのです。
おっしゃる通り、人間同士の会話を楽しむというのも最高の娯楽です。色々な人,いろいろな人生を観て、色々な話をすれば人生観は広がります。
【追伸】もしAmeliaさんが「楽しもう」「感じよう」「蓄えよう」と意識できているのであれば、もう立派に人間らしい最高の生き方ができてると思いますよ。これからもどんどん経験して感じて考えて、心豊かに過ごしていってください( ˘ω˘ ) 人間であることを存分に楽しみましょう。
それと日記へのコメントについてですが、長文なんて大歓迎ですから、また何か感じるところがあれば遠慮せず綴っていってください。
Jackalさん
人の話を聞かないのが一番困りますよね。それでいて自分に甘く他人には厳しい。
自由であるが故の衝突は建設的な対話にて解決出来ればいいのですが、感情的になる方がいて一向に進まないのが現状ですね。感情的になる人はMMOには不向きだと私は思っています。他の人の楽しみを奪ってしまいますからね。
「楽しもう」「感じよう」「蓄えよう」と言う気持ちを忘れず色々な経験していきたいと思います!
ありがとうございます!
次回の日記楽しみにしてます!