「警察署はアパッチ砦じゃない。会社。」
──『踊る大捜査線』の恩田すみれの台詞を、ひょんな事から思い出した。
現実と理想のギャップを、笑いと諦めの中で描いたあの作品は、
『太陽にほえろ!』のような熱血刑事ドラマとは正反対の場所に立っていた。
かつては〈理想の現場〉を描いた物語が多かった。
今は〈理想が現実に押しつぶされる現場〉をリアルとして描くことが増えた。
「メタ」「裏話」「理想と現実」──そんな構造を、私たちは娯楽の中にまで求めるようになったのだ。
FF14の世界にも同じ構造がある。
挨拶は「よろしくお願いします」「お疲れ様でした」。
高難易度コンテンツでは「予習必須」。動画で手順を確認し、最短ルートで攻略する。
……仕事じゃないんだから、と心の片隅で思いつつも、現実とゲームの境界はどこか曖昧になる。
効率的に進めればテンポは良くなる。
だがそのぶん「味わう時間」は減っていく。
「ミスをしない」「無駄をなくす」ことが目的になった瞬間、本来の“遊ぶ”感覚はどこかへ消えてしまう。
これは、ビュッフェで料理を目いっぱい皿に盛る心理に似ている。
1)予習せず成り行きにまかせ、その場その場を順番に味わう(レストランスタイル)
2)全体像を把握し、攻略法を頭に詰め込んでコンテンツを「早食い」する(ビュッフェスタイル)
後者では、全てを把握したい欲が先に立ち、目の前のひとつひとつをじっくり楽しむ余裕が奪われる。
元を取ろうとして皿に盛りすぎると、満腹になる前に味わう余裕がなくなる。
ゲームも同じで、効率を優先すると、仲間との掛け合いや偶発的なドラマを楽しむ時間が削られ、心に残る喜びが少なくなる。
これではあまりに、お百姓さん(作り手)に申し訳ない。
……これを読んでいる方は、そんな気持ちを抱いたことはないだろうか?
さらに、この感覚はそのまま自分の「意思」にもつながる。
効率やルールに追われ、周囲に合わせるだけの行動では、楽しむ余地は限られるのだ。
>高難易度コンテンツの文化と棲み分け
高難易度コンテンツの練習には、こんな習慣がある。
壊滅して失敗したあと、各自が自分の失敗点を振り返り、皆の前で「ごめんなさい」と発表するという。
互いに批判し合えば傷つくことは避けられないから、こういう形になったのだろう。
だが、これ……ゲームと言えるのか? 何の拷問だろうか。
どこぞのヤバいテロリスト集団の「総括」じゃあるまいに、常軌を逸していると思う。
もちろん、感想戦や振り返りは改善には必要だ。
将棋でも勝敗後の感想戦で良し悪しを振り返るのは大切な習慣である。
だが、この惨憺たる習俗は現状のままでは理不尽だ。他に方法はないものか。
こういう文化が改まらないのがイヤで、私は高難易度コンテンツを絶対にやらない。
どうしようもないのなら、最初から避ければいい――それが私の結論だ。
もちろん「その程度のことに耐えられない輩なら来ない方がいい」とは言われるであろう。
ならもう、彼らとは最初から住む世界が違うのだ。
針のムシロのような環境に身を置き、喜びを感じる修羅のごとき人々。
針の上の痛みがわからない人々。
もしそんな世界に住んでいるのなら、彼らの修羅界とは棲み分けるしかない。
もしかして、この「針のムシロ」が嫌だから動画予習スタイルが前提になっているのだろうか。
動画という指針があるからこそ効率的に進める。
わからんでもない。だが、総括しあう習俗自体は変わらない。
「遊びってそういうことじゃねえだろ」と私は思う。
理屈ではなく、生理的に無理と感じる。だから、私は高難易度コンテンツに行くべきではないのだ。
>効率と意思のバランス
目の前を味わう余裕が失われては意味がない。
それは単なる「ゲームを楽しむ」行為ではなく、
高難易度コンテンツの部分練習以前に、「自分の意思を取り戻す練習」をすべきではないか。
効率そのものは悪ではない。
グループプレイではある程度の効率は必要だ。
ただ大事なのは、効率と味わう時間のバランスだ。
途中で止まっていい、味わっていい。
それを自分のみならず、他人にも許す勇気こそ、幸福への小さな一歩になる。
作り手に感謝しつつ、「いただきます」。
>労働化するゲームからの脱却
……ただし、これは盲目的な服従ではない。
「仕事じゃあるまいし」「現実とゲームの境界がどこか曖昧」の延長でこの際、言うが
作り手への感謝とは、盲従ではない。その形もひとつではない。
あくまで自分の頭で考えて判断すること。
自分の意思で、作品を受け入れ、味わい、楽しむ。それがこの敬意の本質だ。
中国の兵法家・孫武(孫子)も言った。
「将、外にありては君命も受けざる事あり」。
私たちもまた、形式的な「お上」に盲従せず、自分の判断で行動する自由を持つべきだ。
話の通じないやつらを相手にフォーラムで無駄な論争にエネルギーを使うより、自分の言葉でnoteやロードストーン、Xに意思を表明する方が建設的である。
運営は、形式的な窓口だけでなく、きっと個々の声も見ているはずだ。
そして、たとえFF14がいつか終わる日が来ても、その覚悟はしておきたい。
偉いお坊さんいわく
「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」
だから今、この瞬間を味わい尽くす価値がある。
効率に追われず、目の前の喜びを心から受け取り、作り手に感謝を捧げる。
再度言う。
感謝の形は一つではなく、ましてや盲従でもない。
「意思を持って行動する」
それこそが、本当の意味で「遊ぶ」ということではないだろうか。