世の中は案外、「気づき」に溢れているものなんだな、とツァスはしみじみ思う。別段に高尚な話ではない。ただ、知らないこと、気づいていないことは視界に入っていても本当の意味では「見て」いないし、記憶にも残らない。
ところが一転、気づいてしまうと、視界にちゃんと入って、記憶にも残る。それどころか折に触れ、気にかけるようになる。そうなるとまた見てしまう、謎の循環の始まりだ。まったく見えていなかった昨日には戻れない、文字通り「見てる世界が違う」ようになる。
「お前のせいだぞー。な、サカナ」
水槽ごしに魚をつんとつつく。人間の思考など知ったことかと言わんばかりに、透明な水の中でくるりと魚は尻尾をくねらせた。
きっかけは、数日前。いつも通り遊びに来ていたレイティオの、何気ない一言だった。
「そういえばさー」
「ん?」
「サシミも随分でっかくなったよな。もう1フルムぐらいはあるんじゃない?」
「……んん?」
『サシミ』はツァスも知っている。生の魚を切り分けた料理だ。正直なところツァスからすれば魚、それも加熱調理をしないままで食べるなど若干正気の沙汰ではないと思うものの、れっきとした、確立された調理法であることは知っている。
……そう、調理法だ。料理の出来栄えとして大小はあるだろうが、レイティオの口ぶりではまるで自発的に成長する何かのようだ。どういうことだと首をひねるツァスに、レイティオが笑いながら指をさす。
「ほら、あれ。あいつ」
レイティオが示したのはリビングと玄関の間、飾り棚の中央を占める水槽だった。木製の棚に合わせているのだろう、木樽を横倒しにして硝子を嵌め込んだような形のそれは、どことなく落ち着いた風合いがある。光を受けて柔らかく輝く水の中には、赤金色の魚が長い鰭を優美に揺らめかせていた。
「……いや、さすがに1フルムはないだろ」
「んだな、俺もちょっと吹かしすぎた。でも、でっかくなったのは確かだと思うんだよな、前はもうちょい小さかったはずだから」
「そんなもんか……」
いつからこの水槽があって、この魚がここで過ごしているかは、ツァスは知らない。そもそも、居ることにすら気付いていなかった。けれどもレイティオの話だと、もっと前から魚と水槽は在ったのだろう。ツァスの与り知らないところで、此処で皆をずっと見ていたのだ。その事実が、なんだかおかしかった。
面白いもので、気づいてしまうと水槽の存在感は無視できないものとなった。居間でだらだらとくつろいでいる時に、そういえばと視線を向けてしまう。
そうして気付いたのが、「ツァス以外の皆がそれぞれ勝手に魚に名前を付け、可愛がっている」という事実だった。むしろ、今の今まで水槽の存在に気付かなかった自分の注意力に、こっそりと落ち込んだぐらいだ。
レイティオのつけた呼び名はサシミ。いざというときは食うつもりか聞いてみたら、さすがに冗談だと笑われた。確かに、非常食にしては小さく、食いでが少ない。どうせなら、もっと大きな水槽で育てて1ヤルムは最低限欲しい、と言ったらドン引きされてしまった。解せぬ。
ハルドクールに聞いてみたら、彼は「シルクロ」と呼んでいるらしい。異邦の言葉で「輪」を意味するらしい。特に輪のような模様は見当たらないので詳細を聞きたかったのだが、あいにくとそのまま機会がつかめないままだ。どこかでまた聞いてみたいところである。
そして。
「トト、元気だねぇ」
一番よく面倒を見ているのが、ナツセ・ワツセだった。水槽に向ける声音は柔らかい。魚類なりに理解しているのか、水槽の中の魚も心なしか嬉しそうだった。ひらり揺れる赤金の鰭が鮮やかだ。
優しくて穏やかな人であることは知っている。あと、手先が器用で、モノ作りが得意なことも。だが、ツァスがナツセ・ワツセについて知っているのはその程度だ。同じハウスに寝起きして、顔を合わせ、共に食事をしていても、案外深い人となりまでは知らないままだった。
「ナッちゃん、今日の餌もうやった?」
「……あっ」
「と思ってやっといたよ」
「ハルドさんごめん……」
気づかなければ、知らなければ、見えてこないものはたくさんある。だからこの世界は面白い。
そんなわけで。
「ただいま、サカナ」
次の日から、ツァスの挨拶をする先がひとつ増えた話。