Personnage

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【RPSS】英 Ⅲ

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道場ではシオンが戦闘態勢で、その結われた長い髪を留めるかんざしが、行燈の灯りを受けて妖しい煌めきを返していた。五人の門下生が、わらべ歌遊びの子どものようにシオンをぐるりと取り囲み、彼女の周りを回っている。彼女たちが手にしているのはどれも稽古用の木刀だが、その足取りや構えには真剣さが宿っていた。

「いつでもかかってきなさい」門下生の青年たちの真ん中で、シオンは凛と立っていた。木刀を握って入るが、構えてはいない。あまりにも隙だらけで無防備だ。傍から見ればその通りだろう。だが、あれはあたしと同じ影の刃。その頭領の側近。実力の程は疑うまでもない。言いつけを破って立ち入った廉で罵ってやりたい気持ちもあったが、彼女がどう立ち回るのかは見物だった。

最初の一人が意を決して踏み出す。シオンはその背後からの一振りを身を斜に逸らして躱すと、素早く木刀を薙いで腹を打った。青年がうずくまるより先に、続けざまに残りの者たちが斬りかかるが、彼女は全てを身のこなしだけで躱し、一撃ずつ反撃を見舞っていった。鮮やかな立ち回りに、稽古を止めて集まっていた人だかりが拍手と歓声を送る。シオンが恭しく一礼すると、観衆の中から次々と名乗りが上がる。シオンが声の主たちに応え、物好きな門下生が前に出る。出揃うのを待っている間に辺りを見回していた彼女はあたしに気が付くと、手振りで人々の注意をあたしに向けた。

「次はわたくしの弟子に代わってもらいましょう」シオンが満面の笑みを浮かべて言う。

駆け寄ってきたせっかちな青年たちに背を押され、道場の中心へと連れ出される。

「いつあたしがあんたの弟子になったんや」耳元で小さな声で、だが隠すことなく不満をぶつける。「てか何やってんねん。あたしはキクサヤやて言うたやろ。刀なんか振ってええわけが――」

しーっ、とシオンはあたしの口元に指を立てて静寂を促した。「わたしもやりましたから、何も問題ありませんよ」

あたしの前に並んだ五人の男たちが揃って頭を下げて、誠実さを見せつける。期待が込められた眼差しが一身に注がれる。引き下がるには遅すぎた。

「ほんまにええんやな」

「はい」シオンは穏やかな微笑みを向けた。「分かっているとは思いますが、殺すのではありませんよ」

「当たり前や」苛立ちを込めて言い捨てる。シオンが部屋の隅へと立ち退くと、あたしは五人の真ん中に囲まれていた。

「お願いします!」

威勢のいい掛け声が一つ響き、続いて他が唱和する。木刀を構えるや否や、最初の動きを背後に察知した。勤勉なことだ。教わった戦い方を徹底している。背後から狙うのは正解だが、影の刃を斬るには遅すぎる。あたしの味方はいつでも素早さだ。振り向くと同時に半歩身を引いて一撃を回避し、出過ぎた男の背を叩き伏せた。男は短い悲鳴を上げ、身体を投げ出すように倒れ込む。次の一手は左右から挟撃するように迫っていた。よく似た顔つきをしている――双子なのだろう、息はぴったりだ。長身痩躯の彼らの足裁きは達者なものだが、それだけだ。あたしは右手側の脅威に素早く接近し、不意をつかれた男の手を打って刀を弾き落とした。勢いを殺さず足先を軸にして回転すると、痛みによろめく男の背後に回りその足を払う。重心の均衡を失った体が呆気なく転がる。振りぬいた木刀を腰に当てがい、居合の構えを取る。素早く踏み出すと同時に腕を振りぬき、向かいから来る男に反応する間も与えずに胴を打った。周囲から歓声が沸き起こる。剣を振るときには聞いたことのなかった音だ。顔中に笑みが広がるのを抑えはしなかった。高揚する気分が、次の敵を探している。残った二人は、どちらが先に攻撃するかを決めあぐねて立ち尽くしている。優柔不断とは剣士にとって致命的な弱点となる。名乗りを上げておきながらそれでは酷い体たらくというものだ。二人の間に潜り込むようにしてひとりの腰を打ち付け、返す刀でもう一人を叩き伏せる。

「こんなもんやな」倒れた男たちの中心で、あたしは勝ち誇るように言った。いっそう大きな称賛の音が耳に心地よく響く。あたしは次の挑戦者を探すように観衆を覗いたが、声は上がらなかった。一瞬生まれた静寂の間にシオンと目が合う。彼女の顔は相変わらず偽物の笑顔に飾られていたが、今は心底愉快であろうその心境が見て取れた。

「おれにも是非やらせてください」少し離れたところから、聞き覚えのある声がした。木刀をもって縁側を歩いてきたのは、来たときに見た筋のいい青年だった。

「もちろんや」

距離を取り、一対一で向かい合う。青年の構えには、持って生まれた才と積み重ねてきた鍛錬に裏付けされた自信が漲っていた。慎重に間合いをはかる彼に合わせて、小刻みに体を揺らす。このような仕合には経験があったが、実際に行うのは久しぶりだった。影の刃の仕事は正々堂々と技を競い合うことではないからだ。大抵の場合、それは不意を突いた一瞬の行為で終わる。青年が何かに好機を見出したか、先に仕掛けてきた。芯の通った一太刀が振り下ろされる。やはり筋がいいが、未熟だ。それをいなし、反撃を仕掛けるのは容易だった。振り払った刀を手元に引き込み、勢いよく突き出す。青年は右に身を翻してそれを躱した。大したものだ。彼が正面に向き直り、構えるのを一拍待つ。二撃目も避けられる――誰もがそう考える。

誰もが間違っている。

「惜しいな」意図せず、それは声に出てしまっていた。

彼が理解するよりも、あたしが動く方が早い。ついさっきまで体の右側の空間をついていたはずのあたしの刀に左の首筋を触れられ、彼はぴたりと動きを止めた。「参りました」

それ以上あたしたちに挑もうという者はいなかった。道場の指導者たちが懇願してきたいくつかの協力は、この清々しい体験の後では魅力的に思えた。だが柔和な態度を崩さずに断るシオンが不意に向けた漆黒の眼差しには、あたしが決して忘れてはならない影が宿っていた。

「なんのつもりやったんや」門を抜けたところで、あたしはシオンに訊いた。「結局あたしを試してたんか」

「違いますよ」彼女はきっぱりと言い切った。「ただ、楽しいこともあるというだけです」


この時期の加茂の社の周辺は、路頭の儀の行列が練り歩く最後の目的地ということもあって、祭りに備える人々でごった返している。だが、あたしたちが話に聞く鍛冶場にたどり着いたのはもう真夜中で、辺りに人の気配はなく、しんと静まり返っていた。鉄を打つ音のひとつでも聞こえてくるかと思ったが、変人は噂に聞くよりはまともで常識というものを知っているらしい。それでもそこを見つけられたのは、路地に立ち並ぶ家屋の一画の一階部分をくり抜いて作られた広い空間に、所狭しと鍛冶仕事の道具が並んでいたからだ。道場に居た無邪気な子どもでさえ、一目でそれと分かるであろうあからさまなものだった。

鍛冶場の奥の小さな炉は、灰の層の下で熾火が燻るまで燃えていた。足音を忍ばせて玄関と呼ぶべき空白を踏み越え、中に立ち入る。灯りもない路地の真ん中で臙脂色が立ち呆ける――シオンはついてこないようだった。躓かないよう、慎重に歩を進める。わずかばかりの灯りに照らされた鍛冶場は薄暗かった。

「こんな夜更けにどちらさまかな」不意にした声が、あたしの呼吸を奪った。その正体を捉えようと聞こえた方向に目を向ける。

瓦灯が灯り、その穏やかな暖色が、ふいごの横に腰掛ける男の姿をぼんやりと照らし出した。その輪郭に、あたしは問いかける。

「あんたがギンジョウか」

「英のもんか」男は薄闇の中でため息混じりに言った。「まあ座りなさい」

男が簡素な木の椅子を指し示し、促されるまま席につくと、机を隔てて男と向かい合う。近付いたことで、ようやくはっきりとその男の顔を見ることができた。ひげを蓄えた中年だ。垂れ下がった目じりは温厚な人となりを思わせるが、暗がりで対峙しているのが英の者と知ってなお落ち着き払ったその態度からは、底知れぬ余裕を感じる。白い刀匠着はまるで神職につく者のようで、袖口から垣間見る筋張った前腕からは、鍛冶仕事のうちに鍛えられたであろう肉体の全貌を容易に想像することができる。この男がギンジョウであることは間違いない。だが、男の顔には懐かしさにも似た奇妙な既視感があった。

「ジトウがこれを見せろて言うた」あたしは腰文を懐から取り出しその横に藤の花かんざしを添えると、机の上を滑らせるように指で押し出す。「刀打たせたとも」

ギンジョウは藤の花かんざしを摘まみ上げ、まるで宝石にするかのように角度を変えながら眺める。その紫の下がりの美を追っていた指先が端の焼け焦げた跡をなぞると、彼はあたしへ、そして腰文へと視線を移した。封が解かれ、中に書かれた文字を追って瞳が上下に揺れる。それを二、三度繰り返すと、男は文を下ろしてあたしを見つめた。そのまま、何か思案するかのように押し黙る。再び満ちた夜更けの静寂は、合点がいったのか口を開いたギンジョウの言葉に破られた。

「お前、ミヤコか」それが信じられないと言った様子で、男の声には僅かばかりの動揺が感じ取れた。

「やったら何や」

「もう二十歳か……早いものだな」男は感慨深そうに呟いた。「大きくなったな、ミヤコ」

男がそう言った途端、あたしは黒煙の中で燻っていた火が燃え上がるのを感じた。焦げ臭い臭いが鼻を衝く。焼け落ちる家、ブキョウの通りに落ちる影、憎むべき敵。この男はギンジョウなどではない。父親の顔をはっきりと思い出し、その面影を目の前の男に認めると、あたしの手は無意識に藤之花房を抜いていた。

「ジトウはわたしを殺せと命じたか?」男は慌てる様子もなく、腰を下ろしたままだった。「手紙にはそうは書かれていない」

あたしの手は、もう僅かで敵の首を刎ねるというところで止まっていた。怒りに震える手を、理性が押さえつける。煙の中にあるように、呼吸がうまく出来ない。やがて刀は下ろしたが、鞘には戻さなかった。

「よい刃だ。研ぎ澄まされている。わたしが打った刀だからというだけではないぞ。お前が影の刃としてよく努めてきたという証だ。今回は少しばかり精彩を欠いたようだが、致し方あるまい。わたしを恨み続けてきたのだろうからな」男は淡々と語る。「あの日からずっと」

「お前が母さんを!」あたしは叫ぶのを我慢はしなかった。深い底から湧き上がる怒りだった。

「その目で見たのか?」男は動じない。「わたしが妻を斬り捨て、家に火を放つところを」

あたしは頭に血が上っていた。正しい答えが見つからない。

「わたしは妻を殺してなどいない。何もしていない」男は続けた。「お前が見たのは炎だけだ」

「やけどジトウは――」

「ジトウが言えば何でも信じるのか?そうではないだろう。お前も疑うことを覚えたはずだ。ただ従順なだけでなく、自分の意思で真実を見定め、行いを選ぶことが出来るようになったはずだ。それなのに、あの日ジトウが言ったことだけは疑わないのか?あの日、ジトウはお前に真実を語ったことだろう。真実だと嘘をついたのだ。必要だったからだ。家と母を失った痛みがお前に飛び火し、わたしへの恨みが薪をくべる。当然お前は影の刃となることを選び、それは次第に研ぎ澄まされていく。実に、英の血を継ぐ者らしく」男の声が、心に入り込んでくる。妄信を覆す。異端的ですらある。「理由なくして、人は影の道を選ぶことは出来ん」

「全部仕組んだことやって言いたいんか」まとまらない考えを、どうにか絞り出す。「あたしに同じ道を行かせるために」

「必要なことだった」

「じゃあ、母さんは生きてるんか」

ジトウは答えない。

「全部茶番やって言うんなら、母さんは生きてるんかって聞いてるんや!」あたしは繰り返す。

ジトウは何も言わず、藤の花かんざしの焼け焦げた跡を撫でた。愁いを帯びた目で、それを見つめる。

「あの日、わたしは家にはいなかった。ここで刀を打っていた。全てはジトウの計で、実行するのは彼らだったからだ。ことが終わった後、焼け跡から見つけられたのはこのかんざしだけ。これはお前の母のものだった。若い頃、彼女はよくこれをつけていた」

あまりに鋭い痛みに、息を飲むことしかできなかった。目の前の男に、何か言うことさえもしなかった。できなかった。

「昔を思い出すようだ」沈黙を埋めようと、彼は言った。

その言葉は、あたしの心に広がった黒煙を払いのけ、幼かった日々の記憶を鮮明にした。他愛もない、ありふれた家族の日常。確かに、あたしの過去にも存在したのだ。だがそれが炎の中に永遠に失われたことに変わりはない。

「母さんは死んだんか」悲しみが言葉となって滲み出す。

「さあ、どうだろうな」投げやりな響きに吐息が薄く感情を乗せていた。男は腰文を広げる。「ここには、全て話してやれとしか書かれていない。わたしが話せるのは知っていることだけだ」

「なんでそんなことしたんや。母さんを巻き込んで、あたしを放り出して、今更こんなこと知らせて、それが英のやり方なんか!」堤防が決壊したように、思いが濁流となって溢れ出す。「苦しくないんか!心が痛まんのか!憎くないんか!」

「涙などとうに枯れ果てた。わたし英の一族に命を誓ったのだ。仮に憎しみを抱こうとも、わたしはただの刀匠。ただそれだけで終いだ」

男はそう言って立ち上がると、格子状の戸に区切られた奥の空間へと姿を隠し、少しすると細長い木箱を持って戻ってきた。目の前で机の上に横たえられ、開かれたその桐の箱の上部が取り外されると、中から一口の刀が現れた。鍔にも柄にも鞘にもまるで装飾のない、紛れもないギンジョウの刀。添えられた証書に、その名が記されている。

「藤之英だ。姿形は同じなれど、これは決してそれのような、復讐のための刀ではない。正義を為し、均衡と調和を守るための刃だ。いずれお前がこのときを迎えたときのためにと、ジトウがわたしに打たせた。ただ従うだけではない。選び、決めるのはお前なのだ。その手にどちらを握り、誰を斬るのか。自分自身が、何者であるのかをな」

父は桐箱の中から刀を取り出すと、あたしに差し出した。それを受け取ったとき、彼の節くれだった大きな手が触れた。硬くざらついているが、温かい。いつの日かあたしを撫で、抱き上げてくれていた父の手。ただ少し触れただけで、それ以上はしなかった。いつの間にか床に落としていた抜き身の刀を拾い上げ鞘に納める。二つの「フジノハナブサ」を一度に差し、鍛冶場を後にする。ギンジョウが瓦灯の中で燃える火を消すと、鍛冶場は深夜の闇と一体となった。

「刀は頂けましたか?」表で待っていたシオンが言った。待ちくたびれたと言った様子でわざとらしくあくびをする。開かれた目が腰に留まる。「頂けたようですね」

全ては仕組まれていたこと。あたしを影の道へと進ませるため、そして今も、ジトウはあたしを試している。彼の言葉を思い出す。これは通過儀礼であり、戻る頃には、わたしは余所者ではなく英の一族であることを理解する。ああ、あたしは英の娘だ。ブキョウの影に遥か古くから潜み、都の秩序と均衡に命を誓った一族、その血がこの身体に流れている。別れの刹那、娘の姿をよく見ようと見開かれた父の瞳は、錆びのような薄茶色をしていた。だが都に落ちる影は、もっと深く黒い。

花ふさの置屋の窓辺に立ち、見渡してみる。冷たい風が、夜明けを迎えた花街を歩く者たちの間を吹き抜けていく。ここからは通りを見渡すことができる。

シオンが座敷に通じる扉を開く。その光景は、あたしに遠い過去を思い出させた。何もかもが、区別できないほどよく似ていた。ただ二つを除いては。一つは、あたしはもう八歳の娘ではないこと。もう一つは、携えた刀は復讐の刃だけではないこと。

その始まりの瞬間から今まで、何度ここに足を運んだだろう。行燈の薄明りの座敷には、抹茶の香りが漂っていた。「よいか」ジトウは言った。「お前は影の刃となるのだ」

あたしは彼の前に跪き、刀を掲げて誓いを立てた。均衡と秩序への誓い、ブキョウの都への誓い。それはこの街を守るものだが、注意しなければならない。たった一つの間違った凶行が、全てを脅かすこともあるのだと。刀は自分のためではなく、より大きなもののために抜かれるものなのだと、彼はあたしに説いた。

ジトウが振る茶筅が小刻みな音を立てながら、碗の中で茶を練る。あたしの手は、藤の花かんざしを求めてうずいた。あるいは、節くれだった手がくれる慰めでもよかった。だがその代わりに、古い刀の柄に手を伸ばし、指をきつく締めつけた。置き去りにされた娘は父への復讐のために生きてきたが、それは間違いだった。彼もまた、茶番に付き合わされたに過ぎない。

「ミヤコよ」

あたしは何も言わなかった。今日という日を噛みしめていた。それ以上に、これまでの人生を。シオンが後ろ手に戸を閉めた。

「戻ったか」ジトウは言った。「ギンジョウは?

あたしは腰に差した二口の「フジノハナブサ」を目で示した。

「……そうか」

「父は役目を果たした」あたしは言った。

「役目とは?」ジトウは上座に座したまま、碗から立ち上る湯気を吸い込んだ。

「あたしに影の道を歩ませること」あたしは言った。「自分自身を理解させること」

「上々だな」あたしの答えを聞く顔の皺が後方に引かれて微笑みを形作り、愉快そうな含み笑いとなり、口から漏れる。彼はもう、今日自分が死ぬことはわかっていた。わたしを送り出した瞬間からずっと。興奮が弱った身体を刺激し、苦しそうに咳込む。影にその身を忍ばせようとも、老いと死は必ず命を見つけ出す。逃げることなどできない。そうなる前に彼に出来ること――彼がすべきことは、いずれこの家を継ぐ者を育て上げることだけだった。

「やはりお前は、英を継ぐに相応しい」彼は言った。「かつてわたしが先代からそうしたように」

背を丸めた老人の言葉が、この家が受け継いできた歴史と伝統を思わせる。都に日が昇ったそのときから、そこにあり続けてきた影の者たち。

「我が孫よ」老人はぽつりと呟いた。

「秩序と均衡に」かつて立てた誓約をはっきりと口にする。一族が皆立てる誓約を。

あたしは何も失ってはいなかった。人生の幸福な時間が炎の中に失われたというのは、ジトウがついた嘘に過ぎないのだ。あたしは真実に気づいている。何も失われていないとき、施すべき調整は存在しない。だが、父は違う。彼だけは失ったのだ。愛した妻は、彼のもとには戻らない。灰の下の熾火のように、彼は誓いの下に憎しみと悲しみを燻らせたままだ。例え父が妻と呼んだ女が、実際には死んでいなかったとしても。全ては都と一族のため。必要なことだった。だが、均衡は保たれなければいけない。目の前で褪せていく命は父の喪失と苦悩の代価に相応しい。

あたしは半歩踏み出し、居合を構える。藤之花房は冷たい復讐の刃だ、だが、それはわたしのものではない。

高価な絹の服、羊皮紙のような皮膚の下に、年老いた骨の感触があった。その全てを、あたしは斬り裂いた。見開かれた彼の黒い瞳が、光を失う。漏れ出した血が畳を赤く染める。長い間影に潜み続けてきた彼の肉体は座敷の上に倒れ込み、あたしはその上に復讐の刃を投げ捨てた。これはもう、あたしには必要のないもの。

「これでええんやろ」物言わぬ屍を見下ろしたまま、あたしは後ろに立つ女に向けて言った。

「はい」それはシオンの声で答えた。「全て見守っていましたよ」

女の足音が近付き、あたしの横に並んで止まった。しゃがみこみ、宗教的な仕草を持って先代の死を弔う。その手と指の動きが幻惑の術に繋がり、女の姿が目まぐるしく変化していく。シオンだった女は次の瞬間、芸妓キクサヤの師である地方の老婆だった。姿が影に包まれたあと再びはっきりと形を得ると、それはかつてあたしの心を奪った青年トウマになっていた。また次の瞬間には、それは血の滲む日々を思い出させる剣術の師の姿をしていた。

あたしの背には常に影があった――生まれた瞬間から、ずっと。ジトウの言葉はまさしく答えだった。

最後にその女が選んだのと同じ顔を、あたしは遠い記憶の中に簡単に見つけることができた。そして、彼女は母の声で囁いた。「よく頑張ったね」

あたしは何も言わなかった。英のミヤコには、それで十分だった。



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