『背中』
朝、目が覚めると体が重たくなっていた。背中に重石が乗っているかのようだ。悪い夢も見た気がするが思い出せない。あまりの重たさに体重計に載ってみると10キロ増えていた。親戚の子どもをおぶったときが丁度このくらいだろうか。前回、体重を測ったのは一週間前だ。一週間で10キロも太ったということになる。
学生時代にラグビー部に所属していた頃、体を大きくしたくて毎日吐きそうになるまで食べたが、10キロ増やすのに三ヶ月かかったことを思い出す。これはわたしが歳をとったということなのか。しかし、体が重たくなったのは今朝からだ。わたしは変だと思ったが太る時というものはこんなものかと自分を納得させた。
10キロ太ったといっても服のサイズは変わらなかった。お腹を触っても出ている様子はない。学校を卒業してラグビーをやることはもうなくなったがトレーニングは続けている。そのためわたしは自分の体力には今でも自信があった。筋力も20代前半だとジムのトレーナーから褒められたばかりだ。わたしは背が高い。胸板も厚く肩幅も広いほうだ。そのため10キロ重たくなったのは筋肉が増えたからだ。わたしは鏡を見ながら自分にそう言い聞かし出勤のため玄関に向かい、落ちていた紙を丸めるとゴミ箱に放り投げドアを開け出かけた。
それから毎日体重を測ることにした。すると体重が増えている。一日ごとに体重が1キロ増えていくのだ。最初の二日くらいまでは食事の量や便通によって変わるだろうくらいにしか思っていなかったが、一週間で7キロ増えたときにこの異常さに気づく。それから更に一週間が過ぎてもまだ体重は増え続けた。つまり三週間で体重が24キロ増えたことになる。
だが不思議なことに服のサイズは少しも変わらない。顔がふっくらすることもない。ただ体が重いのだ。体型は全く変わらないのに地球がわたしを引っ張るちからだけが強くなっていく。その後も体重は一日一日増えていった。次第に背中が重たくて姿勢を保てなくなる。自然と前かがみになる。常に頭を下げた状態になり前を見ることすらもつらくなった。そのため歩いていると人やモノによくぶつかるようになった。
わたしはその度に「すいません」「ごめんなさい」と謝らなければならなくなる。いつのまにか「すいません」「ごめんなさい」が口癖になった。以前のわたしからは考えられない口癖だ。わたしは体格のよさから誰かにぶつかっても倒れることがなかった。体がぶれることすらない。悠然とふらつく相手を見下ろしていた。それが今では風が前から吹いても後ろに倒れそうになり、少しでも何かにぶつかると転びそうになった。
そして、増えた体重が50キロを越えたとき、風呂上がりに鏡に映る自分の姿を見て驚いた。目の前に映っているのはあばら骨や鎖骨がくっきりと浮き出ている痩せこけた男だった。つまり体重は増え続けているのに体は痩せ細っているのだ。そこでわたしは改めて自分の体の異変に恐怖しおののく。
わたしは顔を両手で覆い指の隙間から鏡を覗く。鏡の中のわたしの体から肉がみるみる落ちていく。一秒一秒、肉がしぼんでいくのだ。と同時にわたしは喉の奥に猛烈な乾きを感じる。台所に向かい、蛇口に食らいつくように水を大量に飲み込む。だがどれだけ水を飲んでも乾きが癒されない。体の中に入れた水が瞬時に蒸発するかのようだ。もう立ち上がることもできない。わたしは四つん這いになると骨と皮だけになった体を引きずりながらがベッドに潜り込む。
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。もう何年も過ぎた気がするし5分も経っていない気もする。周りは真っ暗で何も見えない。わたしは自分がもう死んだ後かもしれないと思った。そんなときである。何かが匂ってくる。鼻の奥から貪欲なものが込み上がる。
意識が朦朧とする中、目の前に灯りが見えた。わたしは救いを求めるように手を差し出した。指先に触れたものを掴むとそれを口の中に放り込む。それが舌の上で溶けて喉に流れ込む。冷たいそれが喉を焼き付ける。この鼻腔を抜ける香りはバターだ。わたしは冷蔵庫を開けてバターを貪り食っていた。
わたしはバターを平らげると次にマーガリンを手づかみで食いだした。容器を舌で舐め回し綺麗になるまで残さず食べる。それでも足らず今度はサラダ油の容器を抱えてラッパ飲みした。容器をポンポンと叩き最後の一滴まで飲み干す。わたしは家中にある油を体に入れ始める。すると両脚にちからが宿り立ち上がれるようになった。体に肉が戻り始める。
その後の食生活は脂肪と油が主食となった。脂肪と油をとればとるほどちからが沸いてくる。とにかく体が欲しがるのだ。わたしは牛や豚の脂身だけを買ってきてはそれを炒めて食べる。サラダ油は朝昼晩と2リットルずつ必ず飲み干す。朝晩は家で飲むため他人の目を気にせず済むが、外にあってはサラダ油をラッパ飲みするわけにもいかない。
そこで500ミリリットルのペットボトルに小分けして飲む。お茶のラベル入りなら誰も怪しむことはない。わたしはこの油入りのペットボトルを一本必ず携帯していた。何故なら突然、脚が動かなくなることがあるからだ。まさに油切れ燃料切れである。一歩も脚が動かなくなり立ち止まってしまう。そこから油を一口、体に入れるとまた歩きだせるのだ。
そして、わたしのお気に入りは、生のピーナッツと刻んだ鶏の皮をバターで炒めたものだ。生のピーナッツは加熱すると少ししっとりする。それが鶏の皮のプニプニとした感触とよく合う。市販のバターピーナッツは日持ちさせるためにマーガリンを使っているが、これはまさにバターピーナッツだ。これと一緒にオリーブオイルを晩酌代わりに飲むのが楽しみとなった。
不思議なことにこんな食生活を続けていても体重は増えなかった。病院でも健康診断を受けたが異常は見つからず、むしろ栄養失調気味だと言われる。実際に体重は軽くなった。ただし20キロ増えた状態からは減ることがない。それでも背中の重みで体が折れ曲がるようなこともなくなる。体重は減ったが肉は付いてきた。
医者からはちゃんと食事をとるように注意されたが、ちゃんとした食事では死んでしまうとは医者には言えない。もしわたしが死んだらきっと溶けてなくなるのだろう。火葬場に行かずともマッチ一本で跡形もなく消え、骨のひとかけらも残らないはずだ。
「最近あいつは腰が低くなった」と笑えない理由で部署が変わり、20キロの重石を背負いながらの外回りにも慣れてきた。背中を曲げてうつむき加減で歩くコツも掴んできた。気をつければ何かとぶつかることもない。油切れにだけ気をつければいい。この背中の重みも腰痛になったと思えばいい。腰を曲げて歩く老婆を見ながらそんなことを考える。わたしは子どもの頃に祖母に甘えて背中によく乗っていたが、あれがどれほど祖母にとって重労働だったかのかがよく分かる。
そして、その日も急に脚が動かなくなった。外回りの途中で道の真ん中で立ち止まる。油切れだ。わたしは慌てて鞄の中からペットボトルを取り出そうとした、そのときだ。ふと背中を押された気がする。急に体が軽くなった。背中のあのずっしりとした重みが消える。あまりの身軽さに体が宙に浮いているような感覚に陥る。自分の背中に翼でも生えたのかと思った。
わたしは下を向き、自分の足が地面にあることを確認すると後ろを振り向く。勿論、翼など生えていなかったが、何かから解放されたような気がした。憑きものが取れたとはこんなことを言うのだろう。わたしは自分の背中に手を回し様子を探る。すると突然声をかけられた。
「ごめんなさい!」
若い女性が体をくの字に曲げて頭を下げている。顔を上げるとわたしの目をじっと見ている。どうやらわたしに謝っているようだ。わたしは謝られる理由が分からず周りを見るが他に誰もいない。わたしがどうすればいいのか困っていると、その女性は隣にいる彼氏らしき若い男性に向かって言った。
「ちゃんと前を見なきゃ駄目だよ」
おしまい
ここからの話
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『ジャポニカ学習帳』
僕は彼女とふたり並んで歩いていた。久しぶりのデートだ。彼女は僕の左側を寄り添うように歩く。僕は小柄な彼女の顔を見ながらゆっくり足を進める。次に会えるのがいつになるのかわからない。一瞬でも彼女から目を離したくなかった。そんなとき、何かにぶつかった。僕が前を向くと背の低い男の背中が見えた。男は立ち止まり、少し後ろを振り向く。横顔が見えたが帽子を目深に被り、顔ははっきりとはわからなかった。
男はそのまま後ろを振り向くこともなく歩きだすわけでもなく立ち止まっていた。ただその丸まった背中からは不機嫌なものだけが伝わってくる。僕は何も言わず、上から男を見下ろしていた。すると男が鞄から何かを取り出す。それは見覚えのあるものだった。ジャポニカ学習帳。表紙は知らない色鮮やかな赤い鳥だ。このノートを見かけるのは小学生のとき以来だ。
それから帽子の男は、僕のほうに体を向け、上着の内ポケットからペンを抜き取るとノートを開き、そこにペンで何かを書き始めた。いや書くというよりは走らせるといったほうが適切だろう。男の右腕が渦のようにぐるぐると回る。時計回りと反時計回りを交互に繰り返しながら男の手が弧を描く。素早く動くペン先を僕は目で追うが捉えることができない。ノートに何を書いているのかもわからない。男の視線はノートの上にはなく、男はノートを見ずに僕の足下を凝視していた。男の両肩が小刻みに揺れている。それが帽子のつばに隠れた男の顔が笑っているのを連想させた。
そして、男の右腕がピタリと止まりノートのページをめくる。男が体の向きを少し変え、僕の隣にいる彼女の足下を見た瞬間。
「ごめんなさい!」
彼女が体をくの字に曲げて謝った。
「ちゃんと前を見なきゃ駄目だよ」
彼女が僕の左肘を引っ張る。そのとき男の鼻息が漏れるのが聞こえた。それは残念そうながっかりしたものに思えた。男はペン先をノートにコツコツと数回当てると、首をすくめて何も言わずノートを閉じて鞄に入れた。僕はこれ以上関わり合いになるのが嫌で彼女の手を強く握るとその場を立ち去ろうとした。
彼女は僕に右手を掴まれながらも後ろの帽子の男に頭を下げる。僕は、僕以外の男に彼女が二度も頭を下げたことが気に入らなかった。その後の彼女との会話はちぐはぐなものになる。僕はずっと不機嫌で彼女が一方的に話すばかりになった。
そして、僕の機嫌が直らないまま時間が経つ。別れ際、彼女が「今日はごめんね。それからありがとう」とニコッと笑って手を振ると、改札を通って電車に乗り込む。僕は手を挙げて応えることしかできなかった。
僕は家に帰ると自分が嫌になりベッドの中に潜り込んだ。携帯電話を握りしめながら彼女に謝罪のメールをするべきかどうかで悶々としていた。何て言えばいいのか。何を謝ればいいのか。全てはあの帽子の男が原因だ。あの男がぼーっとしているから悪いんだ。あの男さえ前を歩いていなかったら……と自己嫌悪と責任転嫁を何度も繰り返していたとき、携帯電話が鳴った。彼女からだった。
「ちょっと声が聞きたくなって……」
そんな彼女の言葉に僕は胸が痛くなる。
「ごめんっ!本当にごめん。今日は僕が悪かった」
自分でも驚くほど素直に謝る言葉が出てきた。
「フフフ……」
彼女の嬉しそうな声が聞こえる。
それから彼女と二時間以上話しただろうか。その内容は僕が一方的に話すものだったが、彼女の「本当?」「へぇー」「わー、すごい」という相づちが嬉しくてたまらなかった。
そして、「もう、そろそろ眠らなくちゃ」という彼女の言葉に、僕はおやすみの挨拶をすると、最後に「それにしても今日ぶつかった、帽子を被った男は、変な奴だったね」と彼女に言った。すると彼女の返事は意外なものだった。
「え?ぶつかったのは背の高いスーツを着た、がっちりした男のひとだったよ」
「いや、帽子を被った背の低い男だった。ジャポニカ学習帳に何かを書いていたのを君も見ていただろ」
あんな男のことを見間違えるわけがなかった。僕は確信を込めて彼女に断言する。
「そんなひといなかったよ。わたしは背の高いスーツを着た男の人が、自分の背中を不思議そうに見ていたから、ぶつかったのが気に障ったのかと思って……」
僕はおかしいと思いながらも彼女が何か勘違いしているのだろうと話を無理矢理終わらせる。彼女との雰囲気をまた悪くしたくなかったからだ。
僕は彼女との電話を切った後、あの場面を振り返る。そういえば帽子を被った男の向こう側に背の高い男が居たことを思い出す。たしかにスーツを着ていた。でも彼女が、自分の目の前に居た帽子を被った男に気づかないのも変だし、彼女が僕をからかっているとも思えなかった。僕は混乱し考えが迷走する。モヤモヤとした嫌な感じが、心の底に溜まっていく気がした。そんなときである。玄関のドアをコツンコツンと小さく叩く音がする。誰かがノックするような感じではない。尖ったもので叩く音。コツコツと鳥がくちばしでつつくような感じだ。
僕が時計を見ると深夜0時過ぎている。僕は野良猫でもいるのかと思い、ドアの覗き穴を見る。すると最初に赤いものが見え、次に白いものが現れた。よく見ると白いものは紙のようだ。そして、その紙にはどこかで見た覚えのあるものが描いてある。そうだ。それは覗き穴のレンズの歪みでもわかる、僕そっくりの似顔絵だった。
おしまい