扉絵
大名の娘っぽいミラプリをしたきめせんせい
先日 NHKの番組で 豊臣秀次の切腹についてやっていた
太閤狂乱?「秀次事件」〜捜査会議 豊臣家“滅亡”への出発点〜
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/GGZ27Z868P/https://toyokeizai.net/articles/-/128078https://www.amazon.co.jp/dp/B01DCXXET0國學院大學 文学部 史学科 矢部 健太郎 教授の説がちょっと興味深いですね
https://yumenavi.info/vue/lecture.html?gnkcd=g008376 秀吉は秀次に謹慎を命じただけで切腹は命じていない?。
秀次に死なれた豊臣政権の混乱
秀吉が選んだ最悪の解決策
豊臣家滅亡への出発点となった秀次切腹事件の真相に迫る。
浮かび上がるのは権力の深い闇だ!
なぜ秀次は切腹したのか?戦国時代を終わらせ、天下統一を果たした豊臣秀吉の晩年の汚点とされているのが、
1595(文禄4)年7月15日に高野山で起きた「豊臣秀次切腹事件」です。
側室・淀殿に男の子が生まれたため、甥(おい)の秀次が邪魔になり、
秀吉が追放・切腹を命じたというのがこれまでの通説です。
また秀次も暴虐な行為があったり、秀頼誕生後は関白の地位を脅かされると、
情緒不安定になっていた との説もありますが、本当の事はわかりません。
秀次は秀吉の3歳上の姉の長男で、父親は身分の低い、一説には馬貸し。
子供の頃はあちここちに養子に出されていた。
淀殿は 本名は浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)/菊子。浅井三姉妹の一人。
浅井長政の娘で母は織田信長の妹・市
秀吉との間に1589年男児 鶴松を生むが3歳で死亡。1593年秀頼を産む。
この時淀殿は32歳 秀吉は55歳。
一般的に用いられる淀殿・淀君の名は、同時代の史料には一切見られず、
江戸時代以降の呼び名。当時は「淀様」などと呼ばれていたらしい。
しかしこの事件について、「秀吉が切腹を命じた」という説が本当に正しいのか、
最近になって疑問が持たれています。
秀吉は、秀次を高野山で生かしておくつもりだった?通説では「秀吉への謀反の疑いをかけられた秀次は、秀吉により高野山へ追放され、
切腹を命じられた」とされています。
(色々な状況証拠から秀次謀反に関しては冤罪と考えられています。)
しかし『兼見卿記』や『言経卿記』などの書物には、秀次は自らの身の潔白を証明するため、
自発的に高野山へ赴いたことが記されています。
さらに秀吉は、「高野山には付き添いの侍10名の他、食事の支度をする使用人を
置いてもよい」と「秀次高野住山」令で許可を出しています。
これは明確な文章が残っており、しかも日付が切腹を命じたとされる13日の前日
7月12日であった。 これらの資料から切腹ではなく、実質謹慎処分だったのではないか
という説がでてきている。
切腹を命じる書類は見つかっていません(口頭で命じた可能性はありますが)
また切腹については、
通説では「本来、打首獄門となるところを、無実なので切腹させられた」
と解釈されてきました。
しかし、のちに妻子など一族が公開処刑されたことを考えると、秀吉が秀次に
「名誉ある死=切腹」を強いたのではなく、秀次が自らの潔白を証明するために、
自死を選んだと考えることもできます。名誉ある死=切腹を強いたのであれば、
妻子を殺す必然性がありません。一方、もし、これが秀次の選択であったのであれば、
秀吉は窮地に立たされ、混乱の収拾のために、みせしめに妻子を殺したとも考えられるんです。
また秀次が切腹した高野山は、京の都から130kmも離れています。
山深い高野山では「見せしめ」の効果に欠けることを考えると、
秀吉がわざわざ秀次を高野山に追いやり、そこで切腹させたことに疑問符がつきます。
しかもここは、秀吉が母親の菩提を弔うため自身で建立した寺で、いわば
秀吉の聖地です。そこを血で汚すような命令をするでしょうか?
まあ晩年の秀吉はだいぶ狂っていましたから、わかりませんが・・・。
切腹を命じたとする書物もあるのですが、近年になり信憑性に疑問符がついています。
ただ諸説あり、学会でも統一見解は出ていない様です。
その他
当時秀吉は既に病気がち(62歳で亡くなる3年前)であったが、
淀殿の子(後の秀頼)はまだ3歳。
当時の乳幼児の死亡率から考えて、先に生まれて3歳で亡くなった鶴松の様に無事
成人できるかは判らなかった。それまでの豊臣家の繋ぎになる重要な秀次を、
邪魔になったからと、排除しては、権力に空白期間が生まれてしまう。
判断力の落ちた秀吉に、秀次から権力を取り戻そうという考えも合ったの
かもしれませんが・・。
切腹が秀吉の本意ではなかったとするなら、
秀次の切腹は秀吉にとって、驚愕だった。
切腹そのものが秀吉、豊臣政権にとって大ダメージを与えた。
当時天皇に仕える5摂家に豊臣家が加わり6摂家になった。
(その手引きをしたのが今出川(菊亭)晴季で、娘が秀次の次室)
従来の5摂家にとって脅威だった・・・裏で何か暗躍した可能性もある?
事件の一ヶ月前までは、両者の関係は、それほど険悪ではなかったことを示す文書も
残っている。
その一ヶ月で何があったのかは不明。
ただ、天皇の主治医を天皇を差し置いて秀次が診察させたことに病気がちな秀吉が怒った
という「天脈拝診怠業事件」がありました。
これがきっかけになったのかは不明。
秀次が暴虐であったかどうかは、諸説あって判らない。
後の脚色でそのように印象付けられている点が多く、真実は判らない。
結局秀次粛清の理由は今をもってはっきりしない。
諸説あるが長いので興味のある方はこのWikiを参照の事
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1#%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1その後の秀吉の対策秀次切腹が文禄4年7月15日(1595年8月20日)
その2週間あまり後の8月2日(9月5日)に秀次係累の根絶を図った
幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名が三条河原で衆目の前で斬首されたのである。
https://www.sankei.com/article/20140202-JLGPHV6DY5JJBKHY4IPDLPPEVY/ 遺体は大きな穴に投げ込まれ 「悪逆塚」と彫られた碑が上に置かれた。
秀次を生かしておくつもりだったとすれば、何故こんな残酷な事をしたのでしょう。
これも本当の事は判りませんが・・・・。
現職の関白の切腹という前代未聞の大事件から政権を守るために、秀吉は
事件を「切腹して当然の謀反事件」に仕立て上げる必要に迫られた。
事件を「秀次の謀反」というストーリーで一貫させるために、こんな残酷なことをした。
しかし結果的には逆効果でした。
この中には有力大名の娘もいた
特に悲惨だったのが最上義光の娘の駒姫(於伊万:おいま)。
最上義光と釈妙英(大崎義直の娘)との間の次女(三女という説も)。
伊達政宗の従妹に当たる。
一般的には、豊臣秀次に見初められて側室になったと言われるが、
詳細については資料によって記述が異なり、正確なところは不明。
彼女は、京に到着しで間もない頃で、まだ京の最上屋敷で長旅の疲れを癒していた最中
だったらしい。秀次の寝所に上がってもいないどころか、に実際に会ったことがあるかどうかも
怪しい。父の義光は必死で助命嘆願に廻った。徳川家康にも仲介を頼んだとされる。
直前に処刑を知った淀君らの声もあり、秀吉は、処刑中止を受け入れ、
駒姫は「鎌倉で尼にするように」と早馬を処刑場に派遣した。
しかし、駒姫は11番目に処刑され、あと一町の差で間に合わなかったとされる。
享年は15歳とされているが、19歳とする資料もある。
辞世の句は、「罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥土に赴くは五常のつみも
はらひなんと思ひて 罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」
(罪なき私の身も、世の中のよこしまな動きに邪魔されているが、みんなともに
冥土にいったならば五つの徳目に背いた罪もなくなるだろうと思って、罪を切る
弥陀の剣にかかる我が身、どうして成仏できない五つの差し障りなどあるでしょうか、
きっと極楽浄土にいけることでしょう)。
彼女らの遺体は遺族が引き渡しを願ったが許されず、その場で掘られた穴に投げ込まれ
さらにその上に「秀次悪逆塚」と刻まれた碑が置かれた。
娘の死を聞いた母の大崎夫人も、処刑の14日後の8月16日に亡くなった。
娘の後を追った可能性が高いとされている。
義光の憤激と悲嘆も激しく、この悲劇がのちに義光が関ヶ原の戦いで東軍に属する
伏線になったとする指摘もある。
なお、広く知られている彼女の肖像画は大正期に描かれたものである。
この処刑について 別の側面
秀次の寵愛が深かった次室に公卿で右大臣の今出川(菊亭)晴季の娘 一の台 がいたが、
聚楽第にあった金銀を実家に移送していたらしい。
そのため秀吉に対する翻意を疑われたという説もある。(NHKの放送より)
このためか、晴季もこれに連座して越後国に流罪となったが1596年、赦されて帰京。
秀吉の死後家康の推挙により1599年に右大臣に復職。
https://www.weblio.jp/content/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E6%99%B4%E5%AD%A3 この首塚の遺骨は鴨川の洪水で流出した後はしばらく放置されていた。
慶長16年(1611年)、河川改修の際に石版を発見した豪商・角倉了以が、
供養のために瑞泉寺を建立し、「悪逆」の文字が削られて供養塔として再建された。
同寺には、秀次ら一族処刑の様子を描いた絵巻「瑞泉寺縁起」が残されている。
さらに秀吉は秀次縁故の人物を殺しつくした後には、秀次の痕跡まで消し去ろうと
聚楽第や近江八幡山城の破却が命じられた。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで
徹底的に破壊され、周囲の諸侯の邸宅も同時に取り壊され、周囲の住民も伏見に
強制移住させられた。伏見には聚楽第由来の地名が今でも残る。
このため現在の京都に、聚楽第の遺構がほとんど全く残っていない。
最後に
秀次の切腹に関して、秀吉の命令なのか、自発的なものだったのか、
結論はもちろん出ていない。
ただ矢野教授の説も無くは無さそうなというか、むしろ自然な気もして興味深い。
秀次事件に関係して秀吉の不興を買った大名は、総じて徳川家康の助けを受けて難を逃れたので、
関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属することにもなった。
愛娘駒姫を殺された最上義光もこの中に入っている。
歴史の If
もしこの処刑を行わず、温情を持った裁決であったなら、もしかすると
徳川政権の成立がもう少し遅れていたのかもしれない。
歴史的に名君と呼ばれる人の多くが晩節を汚(けが)している気がする。
付録 SSが無いと寂しいので
聚楽第みたいな
クガネ城を自由探索で探索大名の娘風ミラプリ
フェイスアクセサリー:ベーシックスペクタクルズ:プレーン
せっかく自由探索で入ったので学者LB3
素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。
祖には我が大師トンベリキング。
降り立つ風には壁を
四方の門は閉じ
王冠より出で
王国に至る三叉路は循環せよ
それ・・・呪文が違いまんがな・・・
聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)
安土桃山時代、豊臣秀吉が「内野(うちの)」(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に建てた
政庁・邸宅・城郭。竣工後8年で取り壊されたため、不明な点が多い。
聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年(天正14年)2月に着工され、
翌1587年(天正15年)9月に完成。金箔瓦が用いられていた。
1591年(天正19年)12月に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥(姉・日秀の子)豊臣秀次に
譲ったあと聚楽第は秀次の邸宅となった。
1595年(文禄4年)7月に秀次は、秀吉によって高野山に追放させられ、切腹した。
その後、秀吉は、秀次を謀反人として印象付けるため、翌8月から聚楽第を徹底的に破却した。
本丸は、北堀が一条通南方、東堀が大宮通、南堀は上長者町通、西堀は裏門通付近にあったものと推定。
北之丸北堀は横神明通、南二之丸南堀は出水通北方、西之丸西堀は浄福寺通付近にあったものと推定。
「聚楽」という名は秀吉の造語と考えられている。