Personnage
プライドが高い。
この言葉は往々にしてネガティブな文脈で使われることが多いように思えます。
その本質的な理由は、そのプライドが「自己防衛」のために使われ、他者との関係性に壁を作ってしまうからではないでしょうか。
「上か下か」の評価軸で会話をしたり、「間違いを認める=負け・恥」という価値観であったり、
アドバイスを「攻撃」として受け取る姿勢であったり、自身の基準を「他者にも求めて」しまったり。
接する周囲に不快感や疲労感を与える行動や言動が表出してしまう。
自信のそのプライドを守るために周囲が犠牲になっていることがネガティブな文脈になる要因に思えます。
ではプライドは持たないほうがよいのか。
自己防衛である以上、このプライドは自分の脆さや不安を隠すための「仮面」や「鎧」のような役割を果たしています。
会社や学校など社会においてあらゆる外的要因と自身を向き合わせる必要があるとき、何を以て自身を奮い立たせることができるでしょうか。
「集団として価値が無い」ことに「死」の概念を与えてしまうことができるのが、社会的な動物としての古来よりDNAに刻まれた宿命だと思います。
であるならば「生存本能」として自己防衛を行うことになんの憚りを持ちましょうか。
価値が無いと判断されたら、コミュニティから排除(社会的な死)されるという恐怖を感じてしまうのです。
他者からの評価がそのまま自分の生存環境(給与、居場所、人間関係)に直結する現代社会において、そのプレッシャーは凄まじいものです。
「本能を捨てる」などという悟りの領域のようなことを出来ようがないと思うわけです。
プライドとは社会的な環境において自分自身の尊厳と生存を守るための「内なる防衛ライン」そのものだと思います。
その「ライン」が崩される恐怖はまさに生命の危機を感じるレベルの恐怖であり、それを防ぐために全力でアピールし、あるいは武装するのは、生物として極めて正常な反応です。
しかし、プライドとはそういうものでしょうか。
「攻撃こそ最大の防御」となって周囲をなぎ倒したり、「鎧が重すぎて動けなくなる」ことを指すものなのでしょうか。
大きく一括りにすればそれもプライドではあると思いますが、これは「虚栄心」でしょう。
「生存本能としてのプライド」を肯定した上で、自分を社会的な死から守りつつ、同時に自分を真に強くするための生存戦略とは「自分を律する判断軸」を自身に置くことではないでしょうか。
プライドの高さに他人を引きずりおろすのではなく、プライドの高さに自分自身を持っていくこと。
「人からどう見られるか」という外部評価への依存ではなく「自分はどうあるべきか」という自己規律。
実力以上の自分を演出しそれがバレることを恐れるのではなく、誰が見ていなくても自分自身の信念や、自分が成すべき仕事の質に妥協しないこと。
自分の行動の結果、そしてその結果によって生じる評価をすべて自分で引き受ける覚悟を持つ事。
そうすることで、他者からの承認が得られずに崩壊し生存の恐怖に直結してしまうのを防ぎ、たとえ誰かに否定されても「自分は最善を尽くした」という事実が自分を支える盾になるのではないでしょうか。
すなわちこれは「矜持」です。
「殺されるかもしれない」という恐怖の中にいる時、虚栄心は「嘘の武装」を強います。
しかし嘘の武装は常に「剥がされる恐怖」を伴うため心の平穏は訪れません。
一方で、矜持を持つことは「自分との約束」を積み重ねることです。
「どんなに苦しくても、これだけは守る」「この仕事だけは誰よりも丁寧に行う」といった自分の中の基準(矜持)を持つこと。
それが「自分に対する信頼」に変わるのだと思います。
外部からの保障が一切ない世界で、最後に自身を救うのは「他人からの拍手」ではなく、「自分は自分の誇りを守り抜いた」という揺るぎない自覚です。
ここまで書いておいてなんですが、全く以て言うは易く行うは難しですね。
言葉として理解できることと、実践できることは違いますからね。
矜持を持つということは、時には「みんなと同じ意見や行動ではない」という孤独感をもたらします。
しかしそれは「集団から排除される恐怖」と「自分を信じる強さ」の闘いです。
つまり「矜持」の強さは、孤独に耐える力でもあると思うのです。
「自分を律し、矜持を持つことへの恐怖」ではなく、「自分を騙し、虚栄心を持つことへの恐怖」へと変わったことを自覚できた時、この強さは自分のものになっているのかも知れません。
だから僕は今はまだ誰かと対等に接することなんかできないし、受け止めることもできないのでしょう。
いや、これからもきっとずっとそうなんでしょう。
さてと、まずはどこから始めようか。
ともかく自身が超絶アホであることを再認識して、
わからんことを勝手に解釈しないで素直にわからん、と言うところからかも知れない。
きっとボロカスに言われるけども、それが自分に嘘を付かなかったということの第一歩なのだと思いたい。
こんにちは!
私も多分、同感でいいと思うのだけど、プライドとは守るものや誇るものではないと思っています
高さとかいう概念とは寧ろ逆ではないかとすら
どっちかといえば、プライドとはイコールになるものはきっと「自立心」とか
ちょっと可笑しいかもしれないけど、「立ち上がろうとする力」そんなイメージをもっていました
だめになってしまったときに頼る力、それがプライドじゃないかなって
だから高い床に置いてあるのではなく寧ろ底辺、
人間の心の奥底へしまわれている底力にちかいものですね
それを私はプライドと呼びたいです
一回すごくこれ話した時に強く否定されたことがありました
きっとその方はプライドとは誇り高く志も強く持って生きるって意味だと思われていたのだと思います
しかしプライドも心の作用である限り、誰にでもあるものと考えます
仮に強い誇りや志をもたないで生きている人がいたとして、
その人にはプライドが無いと言い切れるでしょうか、決してそんなことはありえないと思います
だから私はプライドとは誰にでも持ちうる力、
生きる上でその人の価値観を底上げするようなものと考えるのです
もっと感想らしい感想を書きたいのだけど
これも私のプライドが邪魔しているのでしょうか(笑
うまく感想になりませんでした(^^;
きっと見当違いのボールが返ってきたと思われているのではないかと考えたりしますw
「根拠の無い自信」
コレを
どう捉えるか…
嘗てオイラはそれを即座に否定してました
でも、今は
自然に受け入れたり
人に勧めるようになりました
一人一人独立した自我を持つということは
即ち
各々が独りで世界を全て相手取らなければ
ならないということになります
だから、
根拠無き自信は
持たざるを得ない
そう、今は考えています
後はですね
帰属する集団をどう見るかに依っても
かなり周囲の有様が変化するですよね?
私は帰属集団を無いものとして
モデリングする事が多いです
何故なら
其れもかなり不確かな変数であるからです
でも、
私はこう言った
自己を再構築する冒険は
大好きです
生きるべきコンテンツのクリアには
それなくしては
立ち向かうこと能わずですものね😊
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Aska Selsionさん
>>きっと見当違いのボールが返ってきたと思われているのではないかと考えたりしますw
僕の日記に関してはそういうの全く気にしなくて大丈夫ですよ。
内容に沿ってる沿ってない、是認反証、構わず思ったことを書いて頂けたら嬉しいです。
幾分筆者がアホなので、仰ったことを理解できるかどうかは別として、返答という形で向き合わさせていただきます。
自分の中で芯のような弱々しいナニカを持っているつもりですが、自身で反証して磨きあげていけるほどの深い洞察力や多角的な思考を持ち併せておりません。
なので日記という形で投げかけた自身の「想い」だったり「考え」を他の人に触れていただいて、「なるほどそういう解釈もできるのか」と自分自身の「見え方」に取り込んでいってるつもりです。
しかし、元々のベースのCPUがポンコツなので取り込んだ矢先に昔のデータがすっ飛んでいるような現象も起きてますので、「またコイツこんなこと言ってるよ」なんて状況も起きるでしょうが、生暖かく見守っていただけたらと思います。
コメントありがとうございました!
Orgborg Mimasakaさん
>>「根拠の無い自信」
本能的、楽観的なエネルギーとの線引きが難しいところではありますが、非常に興味が沸く表現です。
なんでしょうね、自身に対する単なる盲信ではなく、「何が起きても最後は自分で責任を取り対処できる」という、自身への信頼(=矜持)の最期に行きつく究極の形なのかもしれません。
言い換えるならばフリースタイル矜持と言ったところでしょうか(錯乱)
深堀してみるのも面白そうです。
>>帰属する集団を不確かな変数としてモデリングする
この視点は非常に現実的で冷静である思います。
集団に「絶対的な安心」を求めてしまうと、その集団が揺らいだ時に自分自身も崩壊してしまいます。
集団は一時的な避難所、あるいは協力体制にはなり得ても、自分の存在基盤そのものではない。
だからこそ、自身を律するこの軸は外に出してはいけないのだと思います。
冒険によって自身が再構築され、その強い自身でコンテンツをクリアし、また新たな冒険が始まる。
このループこそが「自身を律する判断軸」を磨き上げるプロセスそのものなのかも知れません。
コメントありがとうございました!
いやだなぁ。
いつも思うんだけどなんで僕はこうちゃんと推敲せずに慌てて投稿してしまうんだろうか。
Aska Selsionさんへの1個めの返信投稿を再投稿します。
Aska Selsionさん
>>仮に強い誇りや志をもたないで生きている人がいたとして、その人にはプライドが無いと言い切れるでしょうか
「プライド=高い志」と定義してしまうと、それは特別な能力や環境を持つ人のものになってしまうようにも思います。
しかしプライドを「自分が自分であり続けるための最小限の力」や「崩れそうな時に立ち上がろうとする力」と定義すれば、それはすべての人間が等しく持つ「生存本能」の表れとなります。
どんなに挫折した人でも、明日を生きようとするならば、そこにプライド(自尊心)が存在しています。確かにそれを否定することはできません。
僕が提示したプライドは「虚栄心」「矜持」ですが、アスカさんのは「根性」と表現できそうです。
まさに「根底にある精神力」です。物事を成し遂げようとする、また困難に耐えてやり抜こうとする強い意志を指すのではないでしょうか。
僕の指すプライドが「倒れるのを防ぐ」ものであるとするならば、アスカさんの指すプライドは「倒れても立ち上がらせる」もの、なのかも知れません。
コメントありがとうございました!
※内容を編集し再投稿しました。
「Pride」も、良い意味でも悪い意味でも色々と訳が紐づいてるンですね…
それで思い出したンですが、「愛(あい)」て言葉も、かつては「対象への執着」て意味で仏教的な価値観だと否定的な感じだったのが、近世になって今の一般的な意味合いを持つようになった、ていうのもちょと思い出しました。そのあたりも過ぎたるは猶及ばざるが如しというか、物事の両側面というか…。
プライドもそんな両方の意味を持ちながら、根幹は良くも悪くも自分が自分であるために守るべき一線で、良い方向への傾きが「矜持」や「誇り」で、それを貫くためのものが勇気や忍耐といった徳で、そゆのを重ねた先にあるのが「自分に対する信頼」…言い換えると「名誉」なんでしょうね。
逆に名誉や名誉欲が先にあったときに、自尊心を通り過ぎた虚勢を張り続けるのは虚栄心で、正しい方向へ努力(たぶんそゆのは義務って言うのかなとも思うンです)を果たすのは誇り、なのかな…?なんてフワっと。
ふと書いてて思ったンですけど…他者を蔑まずに自他の理想のために演じ、もがき続けるって、実際だとホント実際しんどすぎですけど、そこも人の善性なのかなーとも。
Akinekoさま
コメント失礼します。
プライド、誇りって概念は、他者やそれに準ずる何か比較対象があって初めて生じるものなのかなって思っています。それでいて、その対象に対しての自分自身の在り方の表れなのかなって。
人より優位でありたい、自信をもって他者に誇りたい、誰かに自慢したい、主張したい。どれを選択するかは個人の裁量ですけど、たぶん色々な在り方があると思います。
私なんかは基本的に一人ですけど、プライドや誇りがないかと言われるとそうでもなくて、高くはなくてもそれなりに持ち合わせてるんだと思います。
たぶん、自分の中でも過去の自分より上手く在りたいとか、もっと成長したいみたいな在り方がプライドや誇りであり、原動力なんだと思います。
その在り方次第で色々不便なこともある概念だと認識していますけど、あってダメでは決してないと思うので、上手く付き合って良い方向にもっていけるようにしたいですね。
Elia Mazurkaさん
なんだかフワっと核心的な事に迫られた気がします。
「名誉」と「義務」の構造。素晴らしくビビっときます。
外側にある名誉(賞賛や地位)を追いかけるのではなく、内側にある名誉を追い求めること。
自分が自分であるために「成すべきと思う事を成す」という姿勢。これを「義務」や「誠実さ」と呼ぶのだとすれば、それは虚栄心から最も遠い場所にあるように思えます。
虚栄心は「中身のない器を大きく見せようとする苦しみ」ですが、矜持や誇りは「器を満たすための中身(努力や誠実さ)に集中する営み」だと言えるかもしれません。
「演じ、もがき続ける」という善性。
「ありのままの自分」でいることは楽かもしれませんが、社会の中で理想を掲げ、時には「理想の自分」を演じてでも、より良い在り方を目指してもがくこと。
それは自分の弱さ(生存本能や恐怖)を自覚した上での、一種の「崇高な足掻き」だと思います。
そのしんどさを引き受けてでも、「こうありたい」と願うこと自体が、仰る通り人間の持つ「善性(良心)」そのものなのかも知れません。
コメントありがとうございました!
Morgana Eclipseさん
>>他者やそれに準ずる何か比較対象があって初めて生じる
仰る通りに思います。
比較対象が存在しない世界では、自らの価値を測る術や単位を持たないため、プライドという概念は生まれません。
なのでやはり根底にあるのは比較対象との「闘争」であり「攻撃性」であるように思えます。
この対象が「他者」かつ「虚栄心」として働いた場合「トゲ」となり暴力になり得ますが、対象が「理想」や「過去の自分」であれば「自分を彫り出すためのノミ」になるのではないでしょうか。
>>それなりに持ち合わせてる
「基本的には一人」であるとしつつも、原動力にできているのは、比較の対象を「時間軸(過去・未来)」に置いているからなのではないかと思いました。
比較を「自分がどう在りたいかを確認するための座標」として用い、他者の介入なく自身の中で完結させ受け止めている。
他者からの承認や評価に依存せず「自分自身との約束」を守り続けるその姿は、非常に強固で同時にとても静かなものです。
静かなものですが、そこに向き合うことによって確かに「在る」のだと思います。
コメントありがとうございました!