5-5
ヤヤカは目を覚ました。
気が付くと、真っ白い世界を歩いている。今まで意識が無かったはずなのに、その前から歩いていた自覚だけがある。
ここはどこだろう?
ぼんやりとそう考え、歩みを止めようとして――できないことに気が付いた。
足が、体が勝手に動いている。視界さえ変えることができない。声も出せない。
なんだこれは。
異常な事態をはっきりと認識するが、どうすることもできなかった。
どれくらい歩いたろうか。世界は白い霞に覆われていて見通せない。
やがて、霞が晴れてきた。
現れたのは白い壁、白い天井、白い床。複雑に入り組んだ通路も扉も白い。
白い迷宮の中を、ヤヤカは歩いていた。歩かされていた。
足が止まる。手が、扉を開けた。
扉を抜けた先には、記憶があった。
過去の記憶だ。
ここにあるのは、幼少期の記憶。
父と母と兄と共にあった、幸せな時代の記憶。
家族を愛し、家族に愛され。
将来への夢を語ることを許され、応援される。
理解と信頼。
満たされた気分でヤヤカは部屋を出た。
次の部屋へ入る。
優秀な成績で『学究院』へ進学したヤヤカは、そこでシンシアと出会った。
家と全く関係のない、初めての同年代の友達。
最初二人はライバルで、やがてお互いの人となりを知って親しくなり、友となった。
理知的で理屈っぽく皮肉屋。その癖、人見知りで慌て者。愛すべき友。大事な親友。
恋人ができた、と聞かされた時は本当に驚いたものだ。
大好きなシンシア。
満たされた気分でヤヤカは部屋を出た。
次の部屋にも、次の次の部屋にも、幸せな記憶があった。
ヤヤカはどんどん部屋を開けた。満たされ続けた。
そして。
仲間たちとの――テオドールとの出会いの記憶。
シンシア以来の、友人と言える人々。大好きな仲間たち。
それから、最愛の人。
ここでは自分の気持ちを偽ることはできないのだと、何故かヤヤカは知っていた。
だから。
自分がテオドールを愛していること、彼から向けられる気持ちが同じものであって欲しいと願っていること。
それをはっきりと自覚した。
会いたい。
彼に会いたい。
焦がれるような気持ちでヤヤカは部屋を出た。
部屋を出て廊下を向くと、目の前には黒しかなかった。
黒い壁、黒い天井、黒い床。複雑に入り組んだ通路も扉も黒い。
気付いた。
もうこれ以上、幸せな記憶はない。
だったら。
この先にあるのは。
いやだ行きたくないと思ったが、足は勝手に前に出る。
今まで幸せすぎて、自分が思い通りに動けない状態なのだと忘れていた。
黒い迷宮の中をヤヤカは進み――扉に手をかけた。
やめて。いきたくない。やめて。
その懇願は誰にも届かず。
扉が開かれた。
空は赤黒く、炎があちこちから上がっていた。
霊災――第七霊災の日だ。
人は死に、建物は焼け、生き残った人々の一部は暴れまわり、そうではない人は打ちひしがれ、恐怖におびえ、泣いていた。
その中で、ヤヤカは。
兄の死と、親友の死を告げられたのだ。
扉は次々と開けられた。
遺体無き葬送の記憶、あまりにも多くの別れの記憶。
両親がおかしくなったこと。
孤独。
泣きながら寝て、歯を食いしばって生きた記憶。
それでも。
上手くいくはずだったのに。
自分なりに努力して、認められて、仲間もできて、結果も出せて、少しずつでも前に進んでいたのに!
ビアストが勝ち誇る。
クラリッサが冷たい視線で見る。
ギードたちが嘲笑する。
どうして。
どうしてこんな目に遭うの。
唐突に、扉に書かれた言葉が頭をよぎる。
『未来は、力づくで奪い取るもの』
望む未来を――奪い取る。
その言葉が、ヤヤカの心に沈んでいく。奪い取らなければ……奪われる……!
視界が光に包まれた。
迷宮は消えてなくなり、光の中にヤヤカは浮いていた。
目の前の光が色を持ち、ここへ共にやってきた者たちの幻影を創った。
ごく素直に、ヤヤカは浮かんだ人物に対しての気持ちを口に出していた。なぜかそうしなければいけない気がした。
ノノノ。リリ。メイナード――パスファインダーズの仲間たち。
「好き。会いたい」
テオドール。
「愛してる。今すぐそばに来てほしい」
ハ・ゾン・ティア。
「……よくわからない」
ギード。ムムショ。イーヴ。
「邪魔。いなくなれ……!」
ヤヤカが言い終えた途端、光は消えた。
足元に地面の――石畳の感触がある。視界が戻る。そこは迷宮ではなかった。
空に浮いた岩。その上にある、神殿の遺跡のようなところにヤヤカはいた。空は白く、全体が光っているようだ。
あちこちに似たような岩塊が浮いているが、空でも飛べなければたどり着けそうもなかった。
遺跡はヤヤカの知らない様式だった。普段のヤヤカなら飛びついて調べ始めるところだ。けれど、今はそれよりも――不安だった。
たったひとり。
自分だけがいる。
心細くて、足が震える。
急速に、ヤヤカはさきほどまで自分に起こっていた出来事を忘れていった。どこか知らない場所をさまよっていた。その程度の認識になりつつあった。それさえも、今の孤独に比べれば些細なことだった。
「……テオ」
愛しい人の名を呼ぶ。ここに来てほしいと願って。
そのとき、ヤヤカから数ヤルム離れた空中に、紫色の光が現れた。光は魔法陣となり――ヤヤカの想い人を落下させ、消えた。
「テオ!」
落下といっても、ルガディン男性の胸の高さ程度からの落下である。それ自体のダメージは大したことは無いだろう。だが、テオドールは明らかに戦闘で負傷していた。
再会の喜びと心配がないまぜになったまま、ヤヤカはテオドールへと走った。
「ヤヤカさん!」
気付いたテオドールが半身を起こす。その胸の中へ、テオドールの首へ、ヤヤカは抱き着いた。同時に、テオドールもヤヤカを抱きしめた。
思い切り抱きしめるヤヤカと、優しく抱き寄せるテオドール。二人はしばらく、そのまま動かなかった。
「――お怪我はありませんか」
抱きしめたまま、そっとテオドールが問う。ううん、と首を振って否定したヤヤカは、そこでようやくテオドールが負傷していることを思い出した。
「わたしは大丈夫。あなたのほうが!」
心配で大粒の涙を浮かべるヤヤカを、テオドールはそっと両肩を掴んで離した。青い瞳が、優しい笑みを浮かべてヤヤカを見ている。
「これしきは問題ありません。だから……」
テオドールの手が、ヤヤカの涙をそっと拭った。
「泣かないで」
この微笑に、何度心を奪われただろう。彼の顔を見つめていたヤヤカは、その顔がいつもよりずっと近い位置にあって、今も近付いていることに気付いた。
今なら。
手を、肩を掴んでいるテオの手に重ねて、力を抜いた。
目を閉じる。
――そのとき。
「ぐわっ!!」「きゃっ!」
聞き覚えのある男女の声がした。
慌ててそちらを向いたヤヤカたちは、消えゆく魔法陣と、その下で倒れているメイナードとリリを見た。
「メイナード!」「リリ!?」
二人は口々に言って駆け寄った。呼びかけられたリリも、
「ヤヤカさん! テオ!」
身を起こしながら応じた。二人とも相当に負傷しており、特にメイナードはその場から動けないようだった。
「つうわけでな、リリ」
「え?」
リリの下から、メイナードが言った。
「どかなくてもいいが、治してくれ。痛え」
「わっごめん!!」
慌てて降りたリリが、メイナードに治癒魔法をかける。ヤヤカ以外の面々は互いの傷を治療や手当しながら、それぞれの経緯を説明し合うことになった。
「地下迷宮みてえな場所に飛ばされてな、妖異に襲われた。たぶんデーモンだな」
「最初から二人で?」
「いえ。わたしも同じように襲われて、対処しながら退路を探していたんですけど」
「途中の部屋を開けたら、向かいの扉からこいつが顔を出してた」
「開けた瞬間槍を投げようとしたの誰ですっけ」
「俺途中で止めたけどお前のエアロラ入ったからな!」
「……?」
すまし顔で首を傾げたリリを見て、不覚にもヤヤカは吹き出してしまった。
「それで、合流した後も連中が押し寄せてくるもんでな。倒しながら移動してたら、途中で床に魔法陣が現れてな。吸い込まれて、ココだ」
「あっという間でしたね。避ける暇がなかったです。――お二人も?」
「私は二人と同じですよ。敵はこちらもデーモン種の妖異、石造りの迷宮のような場所だった。ここへ来た経緯も同じだ。ヤヤカさんは……」
話を振られ、ヤヤカは戸惑いながら応じる。
「わたしは……迷路みたいなところにいたのは覚えてるけど、他は……。さまよっているうちにあそこにいて……」
そのとき、皆から少し離れた場所に魔法陣が現れ――ノノノが落ちてきた。
「ノノノ!」
皆で駆け寄る。かなりの負傷だった。
「リリ……!」
半泣きでヤヤカがリリを見上げたときには、すでに蘇生魔法が詠唱された後だった。続いて治癒魔法が詠唱される。
「……ヤヤカ無事?」
ゆっくり目を開けたノノノが。開口一番そう問うた。
「無事!」
「じゃあ……よかったぁ」
安堵の笑みを浮かべると、ノノノは再び目を閉じた。がくり、と頭が下がり、蘇生魔法の効果で立ち上がっていた身体がヤヤカのほうに倒れ込んだ。
「ノノノ!?」
抱きとめて動揺するヤヤカ。冷ややかな目をしたリリが、ノノノの後頭部をぺしんとはたいた。
「嘘つかない」
「ちっ。ぶすいなやつめ」
文句を言いながら、ノノノは不承不承自力で立つ。皆が笑った。ヤヤカも笑った。
パスファインダーズ勢揃いだ。そう思うだけで、力が湧いてくる。
「…………ん?」
ノノノが、空を見上げた。皆もつられて見上げる。
空から、細かな光の粒子が降り注ぎ始めていた。細かい雪のような、小さい光だ。
「これは……」
背の高いテオドールが、光へ手を伸ばした。が、光はテオドールの指先に触れると同時に消失する。
「攻撃……ではないようですね」
テオドールを観察しながら、リリが言う。すでに粒子は雪や雨のごとく降り注いでおり、遮るものの無いこの場所では避けようもなかった。
「そっちはどうだよ?」
メイナードに振られ、ノノノが首を傾げる。
「攻撃的エーテルではない……けど、正体は、不明」
光が雪や雨と異なるのは、地面や人を濡らしたり降り積もらないところだ。だがその代わりに、空間の明るさが徐々に強くなっているような気がした。
「ね、この……」
ヤヤカがそれを皆に伝えようとした、そのとき。
一際強い光が、ヤヤカの目の前に降ってきた。
それを。
ヤヤカが手のひらで受け止める。ごく自然に手が出た。皆が気が付いたとき、光はヤヤカの手のひらに触れて――
はじけた。
地下空間で呑み込まれた光と同様の強い光が、パスファインダーズの面々を呑み込んでいった。
気が付くと、中洲の真ん中に倒れていた。
「戻っ……た、の?」
めまいがする。ふらつきながら立ち上がると、皆も起き上がるところだった。
全員無事だった。
ただし、パスファインダーズに限った話だ。ギードら四人の姿はなかった。
「待つしかないですね」
テオドールの決断に、メイナードが肩をすくめた。反感を抱いていたとはいえ、少なくとも妖異に対し共に戦った仲間だ。ここで見捨てる選択肢はなかった。
「……ヤヤカ、それなに」
「え?」
ノノノが、ヤヤカの左手を指差した。指摘されるまで、左手に物を掴んでいる意識もなかった。
その手に。
奇妙な物体が握られていた。
長方形の、透明な板だ。ミッドランダーの占星術師が使うカードほどの大きさで、カード三枚分程度の厚みだった。ガラスのように透き通っている。
その中に。
金属の球体がいた。
異様な状態だった。
板いっぱいに見える『それ』は、動いていた。様々なマーブル状の色彩が、ぼんやりと輝く金属質の球体の上で蠢いている。裏返すと、やや暗くなった球体が見える。薄い板なのに、映っているそれが球体であると分かった。
「なに……これ」
板をよく見る。溶接したようなつなぎ目はどこにも見当たらない。滑らかで、傷一つなかった。
「見せて」
求めに応じ、ノノノに手渡す。
「………………なんだこれ」
仲間たちが集まってくる。皆、板を見て戸惑いを浮かべた。
特に、ノノノとリリは訝しがった。
「エーテルが感知できません」
リリが眉を顰めて報告する。
この星――ハイデリンに住まうすべてのモノは、エーテルを宿している。生命のエネルギーとも称されるゆえ、生命に宿るものが注目されるが、本質はそこではない。環境エーテルという言葉があるように、星から埋みだされた万物に内在するちから。それがエーテルだ。
それが、感知できない。
「……意図的に封じているんだと思う、けど……」
ノノノが珍しく自信なさげに言う。魔法や帝国の魔導技術にも、一時的にエーテルの干渉力を遮断する技法や装置は存在する。だが、この板はこれだけだ。たったこれだけの板で、常にエーテルを遮断し続けている。
そんなことはできないはずだ。
だが、それは目の前にある。
「これが、マハの技術なのでしょうか」
「…………わからない」
ヤヤカは首を振った。そんな話は聞いたこともなかった。マハの遺構と思しきものから持ち帰ったのだから、マハの技術なのだろう、という推論しかできない。
「つうか、だな」
メイナードが咳ばらいを一つして、見上げたヤヤカに言った。
「オマエまたすっげー当たりをひいたな! この板も遺跡も調べりゃあ、確実にマハ……」
轟音が、メイナードの台詞を断ち切った。
直後に、地面が揺れた。天井から石の破片が降り注いだ。
「地震……!」
「まずいぞ!」
テオドールとメイナードは顔を見合わせて、頷き合う。素早い意思決定だった。
「逃げんぞ!」
メイナードがリリの手を引く。察したノノノが、ヤヤカの手を引いた。
「ヤヤカ行こう!」
「えっ……!?」
全員が駆け出したのを確認してから、テオドールが殿を務めた。
「……すまない!」
どこへともなくそれだけを言って、駆け出す。あっという間に、ララフェル二人に追いついた。
「逃げるって……あの人たちは!?」
「分かりません! ひょっとしたら別のところから脱出しているかもしれません。今この場にいない彼らを待って、生き埋めになることはできません!」
「……遺跡が!」
「崩れるかもしれません。ですが、私たちが死ぬわけにはいきません!」
逡巡している暇も余裕もなかった。
坂を上がる。先頭のメイナードが、光る花と土の入った麻袋を駆け抜けざまに拾い上げた。先の戦闘前に、ここに置いたものだ。
「これぐらいは持っていくぜ!」
「えらい! あとで褒めます!」
こんな時でも変わらない二人の軽口に、少しだけ気持ちが楽になる。そうだ。無事にここを出なければ。仲間を失うわけにはいかないのだ。
地震が激しくなった。頭上から土や石が降ってくる。それを、盾や防御の魔法で防ぎ、継続回復でダメージを減らしながら、パスファインダーズは駆け続けた。
彼らにとって幸運だったのは、比較的もろかった最上部の地面が先に崩れ、縄梯子をかけていた部分は坂道のようになっていたことだった。揺れ続ける中で縄梯子を使うのは至難に近かったため、ここに限れば僥倖といえた。
全員が坂道を駆けあがり、さらに崩落の危険性を考えて走り続けたとき。
彼らの後ろで、壊滅的な轟音が響いた。
振り返れば、かなりの広範囲に亘って地面が沈み込んでいた。あの地下空間は想像以上に広かったようだ。それらが一斉に崩れ、沈み込んでしまったのだ。今や地下空間は跡形もなかった。さらに、隣接していた川や湿地の水が大量に流れ込み、泥の水溜まりが出来つつあった。
「……ああ……!」
揺れがおさまる。ヤヤカはしばらく、立ち尽くして眼前の惨状を見続けた。
「くっそ……」
メイナードが悪態をついた。リリはへたり込み、ノノノはヤヤカを案じて、握った手を離さなかった。
「…………一旦、拠点へ戻ります。拠点の被害状況を確認し、今日は休みましょう。生存者の捜索は、明日にします」
努めて冷静な声で、テオドールが言った。
「――うん」
ヤヤカは頷いた。ノノノとも顔を見合わせると、拠点へと歩き出す。不思議と、遺跡を惜しむ気持ちは薄かった。
――それよりも。
ずっと握ったままの、この板のほうが気になっていた。
テオドールの方針通り、一行は拠点へ引き返した。地震の被害はほとんどなく、食事を摂るころには日は暮れて、疲れたヤヤカはすぐに寝てしまった。
翌日からギードたちの捜索をしたいテオドールたちだったが、夜半から嵐がやってきて、拠点で耐え凌ぐのが精いっぱいだった。
嵐は丸二日吹き荒れた。明けてから、彼らかは捜索に向かったが、成果はなかった。
地下空間があった場所は完全に泥の湖と化していた。やがて沈殿と川の流れで泥は消えるのだろうが、それはずっと後のことだろう。
四日後、一行は帰国を決定した。
ヤヤカは。
その間ずっと、板を見ていた。捜索の合間も、拠点で休む時も。暇さえあれば、板を――その中の球体を見つめていた。
「あなたは――なあに?」
帰路の船室で、ヤヤカは口に出して問うてみた。
当然答えはなかった。
けれど。
一瞬だけ、球体を覆う色彩の流れが速くなった気がするのは――気のせいだろうか?
(六章前半に続く)