本文を読む前に読んでね。
https://jp.finalfantasyxiv.com/lodestone/character/27731871/blog/4274562/「愛」も「恋」も、どちらも「好き」という言葉で表されるけれど、その内容は全くの別物。
「恋」は「乞い」。
こうなりたい、こうしてほしい、主体は自分。
「愛」は「合い」。
相手の気持ちに合わせて、こうしてあげたい、幸せでいて欲しい。主体は相手。
あ、ちなみにこれ、言葉の由来だとか語源だとかそういうんじゃないわよ。アタシの個人的な考え。
子供のうちは、「乞い」なのよね。
望むことは周りがしてくれて当然。
そのうち経験を積んで大人になるにつれて、「合い」も理解していくもの。
といってもそんなに難しいことじゃないのよ。
例えば目の前で転んだ人がいたら「大丈夫ですか」って声をかける、手を差し伸べる。
それに対して、「ありがとう」って言ってもらえる。
あるいはその逆の立場を経験する。そういうことの積み重ね。
本来であれば、あたりまえのこと。
でも、年齢を重ねても経験を積むことができなかった人や、
その経験から何も得ることができなかった人は「乞い」続ける。
いるでしょ、なんでも「してもらって当然」で、「してあげる」のがものすごく下手な方。
たまに「してあげる」機会があると、内容以上の評価を求めるような。
よっぽどママに甘やかされて育ったのね。
世の中には「してあげたい」方もいるから、そういう組み合わせならそれなりに幸せなのでしょうけど
それでも、ギブ&テイクのどちらかに偏ると長続きはしないものよ。
下手するとストーカー化の未来が待ってるわ。「合い」を知っている人は「乞う」こともできるけれど
「乞い」しか知らない人は「合う(合わせる)」ことができない。
どうにか均衡がとれてるうちは良くても、ひとたび崩れると二度と元には戻れない。
なにごともバランスなのよ。だのにそもそもの絶対数が違っていて
世の中の仕組み自体がバランスとれないようになってる。
そして残念なことに、その
煽りを食うのはいつだって「できる」側。「できる」側にいて「できない」側の尻ぬぐいをしながら過ごすのと
「できない」側にいて「できる」側に尻ぬぐいしてもらいながら過ごすのと
果たしてどちらがいいのか、そこは自分で選ぶしかないけれど。
アタシ自身は「合い」を知っている側でありたいと思っているわ。
そのかわり、そうする相手はしっかり見極めないとね。
まあ、できてるかどうかは別の話だけども。